カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第24主日 マルコ 8・27-35

2021.12.12 (日)
兄弟姉妹のみなさん

 今日の福音書では、イエスが弟子たちに問いかけます。仕事を捨て、家族とさえ離れて、誰に従っているかを弟子たちに自覚させるためです。イエスはまず、尋ねました。人々は私のことを何者と言っているのかと。ある人は、洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、あるいは他の預言者の一人と言っています、と弟子たちは答えます。その後で最も重要な質問、「あなたがたは私を何者だと言うのか。」と尋ねます。私たちはペトロの答えを知っています。「あなたはメシアです。」と答えたことを。
 お陰さまで65年、自分の人生を振り返りながら、年に何回かこの箇所を読み、また、これについての聖書学者の説明にも触れていますし、自分自身も、ミサの説教や聖書の勉強会の中で、コメントして来ました。この箇所を読む度に、何度も私は答えます。不思議なことに、この質問に答えるのに厭いたことはないのです。私が常にしなければならない、信仰宣言のようなものだからです。
 ですから、今日も、この箇所の黙想を皆さんと分かち合いたいと思います。皆さんにお願いします。それぞれが自分の信仰宣言として、イエスに答えてください。そして、今日も、イエスに従う信仰を新たにしてください。特に今、私たちはパンデミックの只中にいます。地球規模で起きている様々な出来事:洪水、戦争、多くの人の移動など、について考える時。

福音書(マルコ 8:27−35):どのようなイエスに従っていますか:ペトロの信仰宣言
 ペトロの信仰宣言として知られている、フィリポ・カイサリアの出来事と、イエスの一回目の受難の告知について、多分皆さんは何度も聞いていると思います。今日はマルコ福音書が読まれましたが、このエピソードは、マタイ(16:13−25)とルカ(9:18−24)にもあります。この出来事が初代のキリスト者に大きなインパクトを与えたことが伺えます。祈るために集まった時、定期的にこの箇所を読んでいたのではないでしょうか。この経験は、どの時代のキリスト者にとっても信仰の土台になるのではないかと思います。すなわち、イエス様のこの質問に答えなければ、私もイエスの弟子にはなれないのです。
イエスの近くにいた弟子たちのグループは、しばらくの間、イエスを師として従っていました。例え話を通しての教えや、特に、イエスが彼らの目の前でなさった癒しの奇跡や、悪霊を追い出したことを覚えていたでしょう。そしてパンを増加して5千人に与えたことや、湖を歩いてガリラヤ湖の嵐を鎮めたことも印象に残っていたに違いありません。
 弟子たちは、師であるイエスの旅に従って、一緒に食べたり、飲んだり、会話をしたり、祈ったりしていましたから、師であるイエスが誰であるか、どういう人か知る機会が十分にありました。疑いなく、イエスは素晴らしい先生です。普通の人ではなく、人々を惹きつけ、その人生を変えているのを見て知っていました。
 イエスは彼らを知っていながら、カイサリアに向かう道で彼らに重要な質問をされたのです。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と。ペトロは「あなたはメシアです。」と答えています。この返事で、イエスが神から遣わされたメシアであることが明らかになりました。
 しかし、さらに進んで、イエスが、ご自分の受難のことを話されると、ペテロはそれが全く理解できず、激しく反発します。イエスに注意するために、傍に連れて行きました。イエスをメシア、と最初に宣言したペトロは、拒否するのも最初の人であったのです。(イエスが捉えられた時、ペトロはイエスが友であると認めるのを怖がり、イエスを知らないと言いました。)ペトロは、イエスに、その道が無意味であると、その道を行かせない、そんなことがあってはならないと告げました。
 するとイエスは即座にペトロを強く叱りました。なぜなら、ペトロの行動はサタンの声を意味していたからです。神である父の希望を果たすことを止めようとしていると。ですからイエスは厳しい言葉でペトロに言いました「サタン、引き下がれ。」。イエスはペトロを叱りました。つまり:ペトロ、あなたは弟子のところに戻りなさい。そして私を誘惑しないでください。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。
そして、最後に、イエスは弟子たちと人々を呼び寄せ、ご自分の言葉をよく聞くようにと言われました。イエスご自身、彼らが忘れないように、何度も繰り返しました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と。

 イエスが誰であるかを言葉で宣言することは簡単ですが、イエスに従い、そして、計画を共にするためには迫害と十字架が含まれていることを、彼らはまだ想像もしていなかったのです。

第1朗読(イザヤ 50:5−9a):イエスは預言者イザヤが宣言した「苦しむ僕」である
マルコは、イエスが多くの苦しみを受けなければならないと指摘しています。イエスがイザヤの預言にある「苦しむ僕」であるということ。イエスは最初から何も隠さずに、明らかに話されました。彼らが知らなければならないことは、神の国が到来するための道を宣言すること。その道を拓くために伴う苦しみでした。イエスの最期は、彼らが思った以上に早く訪れ、それは劇的な展開でした。ご自分が神の子であること、預言者たちが語ったメシアであることをイエスが宣言したことで、ユダヤ教の宗教指導者から罪に定められ、排斥され、激しく処刑されました。3日目に復活してから、彼らはイエスが予告したことをやっと理解したのです。しかし、彼らは、隠れていた場所から出て、イエスが誰であったかを、そしてその福音を世界に伝えるためには、聖霊の火を必要としました。イエスのように、神の国のために命をかける聖霊の火を。

第2朗読(ヤコブ 2:14−18):イエスの教えと、そのお手本を実践しましょう:
 誰もイエスに従うこと、弟子になることは強制されていません。なぜなら、それは、各々の自由意思で決断することだからです。しかし、イエスに「はい」と答えると、私たちは他の人に対して、イエスが誰であるかを宣言しなければなりません。それだけでなく、愛といつくしみの掟を実践し、そのように生きる努力をしなければなりません。
私たちは、イエスの使命のまことの協力者であることによって、イエスの弟子と言えるのです。その使命とは、この世界がもっと人間的になるよう、全ての人が神の子として生きられるように働くことです。分裂ではなく、一致の下での建設者であり、心が全ての人に開かれていること、具体的に言えば、マタイの25章、最後の審判の例え話にあるように、いつくしみの業を行うことです。
 イエスの時代とその歴史の中で、キリスト者であること、そして、まことのイエスの弟子であることは現代でも簡単ではありません。しかし、とても価値あることです。その人生は意義深いものとなります。何のために生きているか。それは、イエスが、私たちの命の唯一の救い主であるからです。

 聖母マリアと聖ヨセフに祈りながら終わりましょう。聖母マリアと聖ヨセフが私たちを支え、イエスの道を歩み続けることができるように、共にいてくださいますように。