カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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主の昇天 マルコ 16・15-20

2021.12.16 (日)
兄弟姉妹の皆さん

今日は主の昇天をお祝いしています。この神秘の意味を黙想しましょう。そして使徒たちが、どのように、「イエスの良い知らせを世界中の全ての民に宣言しなさい」という命令に従ったのか、分かち合っていきましょう。彼らがエルサレムから出て、全てのところへ行き福音宣教したことが、今日読まれた福音の箇所から分かります。主はしるしをもって彼らの言葉を証明されました(マルコ16・20)。

昇天の意味
4人の福音史家とパウロが、復活について語っている内容(①コリント15章)によると、復活されたイエスが現れたのは、限られた期間でした。このような出現の目的は、弟子たちを集わせて、イエスが墓に留まらず、生きていることを証明するためです。弟子たちが受けた使命は、イエスが生きているということを世に宣言することでした。

一つの課題
すぐ訪れるはずの希望が叶えられないと分かった時、彼らはどのようにキリスト教信仰に留まることができたのか。(イエスは、そして弟子たちも、神の国がすぐ訪れると宣言しました。)
しかしこのような形での疑問を抱くことは、生まれつつあるキリスト教の現実とは異なっています。彼らは信仰を、今、生きている力として実感し、同時に希望していました。弟子たちはイエスの再臨について話します。しかし何よりも彼らが証ししているのは、今イエスは生きているということ。イエスは祝福しながら、彼らから離れて天に上りました。彼らは大きな喜びをもってエルサレムに戻りました。
主が最終的に彼らから離れたにもかかわらず、どうして弟子たちは喜びに満たされたと言えるのか。どうして最終的な別れが彼らを悲しませなかったのでしょうか。

彼らは喜びのうちにエルサレムに戻り、神をたたえていました。・・・それをどのように理解すれば良いのでしょうか。弟子たちは、置き去りにされた訳ではないと感じていたことを私たちは理解できます。イエスが遠く、手の届かない、掴みどころのない天に行ったということを彼らは信じません。彼らはイエスの新しい現存に確信をもっています。復活されたイエスは、今、彼らと共にいると。新しい形で、力強く。イエスが神の右の座に着いたということは、彼らにとってイエスの新しい現存であり、二度とこれを失うことはないのです。

従って昇天は、イエスが宇宙の遠いどこかへ行ってしまったことではなく、身近なところで、弟子たちがずっと喜び続けることができる力の存在を体験させました。

雲がすべてを覆い、彼らの目を遮る。ご変容の時のように、光り輝く雲がイエスと弟子たちの上にとどまる(マタイ17・5、マルコ9・7、ルカ9・34)。雲はイエスがいなくなったことを、星に向かっての旅としてではなく、神の神秘に入られたこととして表しています。
神の右の座に着くこと。これは、遠い宇宙のどこかのことではありません。神の右の座に座っているということは、全ての上におられる神の力に与ることです。去っていくイエスは、宇宙のどこかの遠い星に行くのではない。生きている神の命と、その力の交わりに入って行きました。ですから、去って行ったのではなく、神の力を持って、私たちのために共にいてくださるのです。

「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(ヨハネ14・28)。行くことは来ることである。新しい方法での親近感であり、継続的な現存です。一つの場所にいるのではなく、全ての人の側にいる。そして、どの場所からでも、歴史のどこでも、みんなが呼びかけることができます。

一つの例え・・・パンの増加の後、イエスは弟子たちに、船に乗り、そして、先に向こう岸のベトサイダへ行くようにと命じました。その間イエスは群衆と別れています。そしてイエスは祈るために山に退かれます。弟子たちは自分たちだけで船に乗っている。風は強く海は荒れて、波の力に脅かされています。主は遠くにいるように思われます。山で祈っているように。しかし、イエスは彼らを見て、海の上を歩いて彼らのところへ来られました。彼らの船に乗り、目的地まで旅を続けることができました。

教皇フランシスコはこの場面を、パンデミックに晒されているこの世の、今の状況に例えています。どうして主は不在なのか。

これは、いつの時代にもある、教会の姿を表しています。主は私たちを見、私たちの人生の船にいつでも乗ることができます:ですから私たちは呼びかけることができるのです。イエスがいつも私たちの願いを聞いてくださる、という確信をもって。今の教会の船は、逆風に遭って荒れた海を通っています。いつも沈みそうになっています。しかし、主は共にいて、ふさわしい時に訪れることを私たちは知っています。

使徒たちのミッション
弟子たちのミッションは空を見続けること。時と場所に隠されている、神の秘密を知ることではない。彼らの使命は地の果てまで、キリストを証しすることです。

使徒たちはどこへ宣教に行ったのか、そしてどのように殉教したのか。
多くのカトリック信者は、聖霊降臨の後の弟子たちについて、いくつかの知識を持っていると思います。使徒たちを描くためにたくさんの画家たちが、伝統的に伝わっているもの、特に外典福音書からインスピレーションを受けています。

トリノ、イタリアの扶助者聖マリアの御絵
トリノのサレジオ会本部に大聖堂があります。1868年に創立者であるドン・ボスコによって建設されました。中心の祭壇の上に7mX4mの大きな御絵があります。イエスの母マリアを描いています。御絵の題は「キリスト者の助けなる聖マリア」。ドン・ボスコの依頼でイタリアの画家、トマソ・ロレンツォーネによって描かれました。画家はこの素晴らしい絵を3年かけて描きました。完成と同じ年、1868年に聖堂に設置されました。

中心に聖母マリア、その腕に手を開いて幼子イエスを抱いています。神の母の周りに12使徒と福音史家。何人かの人たちは、殉教に使われた道具や、その人と分かるしるしを手に持っています。中心に立った聖ペトロ使徒が天国の鍵を持っています。聖パウロは剣を、四人の福音史家、使徒ヨハネが毒の盃と鷲、聖マルコはライオンの上に、聖ルカは牛の上に座っています。聖マタイは天使と。マリア様の右側に槍を持った聖トマス使徒、剣を持った聖バルトロマイ、聖マチア(イスカリオテのユダの代わり)、そして聖シモンがいます。左側には他の人たち。大きい聖ヤコブ、聖フィリポ、エックスの形の十字架で聖アンデレ、斧を持つ聖ユダ、そして小さな聖ヤコブが描かれています。

このように教会の伝統は、聖霊降臨の後に使徒たちが与えられた主の命令に従って、エルサレムから出発して、当時知られていた3つの大陸に行ったことを伝えています。アジア、アフリカとヨーロッパ大陸へ。ヨハネ以外は皆殉教されました。画家たちは、使徒たちの姿を、宣教への熱意、あるいは十字架につけられて死んだイエスに対する信仰によって殉教された特徴を表すもので描いています。

私たちも今日、イエスの弟子としてイエスとの深い一致を育て、祈りと内的な浄めを通して、良いサマリア人として、愛の証し人になれますように(ルカ10・25−37)。

来週の日曜日は聖霊降臨をお祝いします。その準備として、伝統的なノヴェナを続けましょう。