カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第3主日 神のことばの主日 マルコ1・14-20

2021.12.24 (日)
今日の主日(年間第3主日)は、「神のことばの主日」でもあります。はじめに、その謂れについて説明し、次に、「キリスト教一致祈祷週間」に少し触れたいと思います。

年間第3主日を「神のことばの主日」として祝う
2019年9月30日、聖ヒエロニモ帰天1600周年の始まりに当たって、教皇フランシスコは、使徒的書簡 「アペルイット・イリス“Aperuit illis”」を通して、年間第3主日を「神のことばの主日」とすると宣言されました。「アペルイット・イリス」はラテン語で、エマオの弟子たちの箇所からとられているもので、ルカの福音書には「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、」と記されています(ルカ24・45)。教皇はこの使徒的書簡を通して、神の言葉を特別に祝う日曜日があれば、という世界中の信徒たちからの願いに応えようとされたのでした。
15項目からなる短い手紙です。教皇は、その中で、パウロの手紙の中から、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(テモテへの手紙二3・16)との箇所を引用し、神の言葉(聖書)は限られた特別な人たちの遺産ではなく、神の民のものであると強調されています。そして、神の言葉(聖書)に基づいて奉仕する司牧者に対しては、説教は、準備することなく、即興的であってはなりません、そして、その日のみ言葉(聖書)のテーマと関係ないもので長引かせないように努力してください、と勧めておられます。神のことばを真に理解できれば、私たちの救いに役立ちます。ですから、安易な、原理主義的な解釈に陥らないように気をつけなければなりません。
また、神の言葉に養われて、希望をもって現代を生きるようにと勧めるために、神の声を聞く人の優れたモデルとして、イエスの母を紹介しています。なぜなら、マリアは、聖書にある神の言葉を生きた宝として、何よりも大切に守ったからです。神の言葉(聖書)をいつも読み、私たちの考えや行いにそれが染み込むようにしましょう。

キリスト教一致祈祷週間(1月18〜25日)
2021年のテーマは「私の愛に留まりなさい、そうすれば豊かに実を結ぶ。」というもので、ヨハネ福音書の中にあるイエスの言葉に基づいています(ヨハネ15・5−9)。北半球では毎年、この冬の時期にこのお祝いをしますが、南半球では1月は夏休みですので、他の時季、例えば聖霊降臨の日にお祝いしています。どちらにしても教会一致のシンボル的な意味があります。

今年も、1月17日の日曜日、教皇がお告げの祈りの終わりに、イエスの希望の実現のために祈るように呼びかけられ、「すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17・21)「対立するより一致がいつも勝ること」を強調されました。そして、ローマの習慣により、1月25日には聖パウロ大聖堂で、他のキリスト教共同体の代表と共に、前晩の祈りを司式しながら、その締めを行われることでしょう。

エキュメニカル運動の起源
それは、1740年ごろのスコットランドで生まれた、北アメリカとも関係するペンテコステ(聖霊による刷新)運動に遡ります。そこにあるメッセージは、「信仰の刷新のためにすべての教会と、教会のために祈る」でした。その当時、福音派の説教師であるジョナサン・エドワーズは、様々な教会が一致して宣教の熱意を見出せるようにしようと願い、祈りと断食の1日を、と要求したと言われています。
1902年には、コンスタンティノーブルの総主教、イオアキム3世がシノドス回勅「イレニカ」を書きました。それは、キリストを信じる人たちの一致を祈るための招きでした。その数年後の1908年、ポール・ワトソン神父が、ニューヨークのグレイモアで初めて「一致の祈りの8日間」を制定してお祝いしました。それが1月18日から25日でした。彼はこの「一致の祈りの8日間」が習慣になってほしいという希望をもっていたそうです。
1964年、歴史的な出会いの記録が残されています。それは、教皇パウロ6世とアテナゴラス総主教がエルサレムでイエスの祈り、すなわち、「すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17・21)と共に祈ったとの記録です。この年は、奇しくも、第二バチカン公会議の「エキュメニカルに関する教令(Unitatis Redintegratio)」の公布の年でもありました。そこでは、エキュメニカル運動の魂は祈りであることが強調され、祈祷週間を守るようにと励まされていました。

今日のみことば(聖書)についての短い黙想

ヨナの預言
第一朗読は預言者ヨナの書の短い節です(ヨナ3・1-5,10)。神は二ネべの人々に回心を呼びかけるために、ヨナをニネベの都に送った時の話です。この歴史物語を私たちはよく知っています。ヨナは神から受けた使命から逃れようとして船に乗り、大きな嵐が起きます。それは、ヨナが神から逃げようとしたから。そして船は沈没しそうになりました。ヨナは自分を海に投げ捨てるように頼みました。しかし、ヨナは溺れずに、大きな魚に飲み込まれ、3日目に吐き出され、そこから直ちにニベネに行き、町の人々に神の言葉を告げました。
この箇所が強調しているのは、この都が彼らの罪によって絶滅することになっていたにもかかわらず、ヨナの説教によって悔い改め、破壊から救われたことです。
今日の朗読はそこまでなのですが、ヨナの書は続きます。多くの人は、この箇所で朗読を止めてしまいがちかもしれませんが、ヨナ書を最後まで読むと、ヨナはこの都の人たちが回心した後も、ある距離を保ちながらそこを見続け、神がいつかこの都を罰するのを待っています。しかし、神はいつくしみ深く、彼らを赦します。

教皇フランシスコの、あるコメントを思い出します。ヨナは、神があまりにもニネベの人々に対していつくしみ深いからと神に怒りを感じてしまいます。実は、預言者であるヨナ自身が神がいつくしみに満ちていること、更に言うなら、「神の名はいつくしみである」ことを発見する必要があることに触れられたことがあったのでした。私たちもヨナの精神を越えて、日毎にいつくしみ深い人に変わることができますように。

マルコによる福音(マルコ1・14−20):イエス、神の国の福音宣教を始める
今日の朗読箇所では、神の国の到来を宣言しながら、宣教を始めた、すなわち、イエスの公生活の始まりのときのことが記されています。それは、ヘロデが洗礼者ヨハネを捉えた後だったと記されています。マケラスの要塞にヨハネが投獄されたことに関して、ヨハネの弟子たちがどのように反応したか正確に知ることはできません。しかし、イエスがどのように反応したでしょうか。イエスは荒れ野に留まらず、ナザレの家族に逃げ込みもしませんでした。ガリラヤの村々を旅しながら、新しいメッセージを伝えることを始めたのでした。

イエスは、「時が満ちた」、イスラエルが「待つ時」は終わったこと、ヨハネの時も終わり、イエスとともに新しい時が始まったことを、イエスが行う奇跡と宣教を通して人々に告げ知らせ、神が私たちの間にいるということを人々に告げ知らせます。この世の中での神の現存を、私たちは神の国と呼んでいます。それがこの世をもっと正義に満ちた社会に変化させる力になると信じています。私たち、特にキリスト者は、福音と歴史の出来事を通して、常に神が現存し、語り、行動されると信じるよう招かれています。イエスの弟子たちのように、私たち協力者は、イエスが宣言し、命をかけられた、み国の価値観に基いて、疲れを覚えず、新しい社会を築くように、すなわち、み国の到来を待ち望んで生きることができますようにと願い求めましょう。

祈り
私たちキリスト者が、イエスが福音を通して宣言した神の国の価値観に基づいて、真に人間的な社会を築くための、一致の道を探し続けることができますように。祈りましょう。
・ 私たちの父である神よ、イエスの福音に基づいて、私たちのこころを合わせることが出来るよう助けてください。それによって、まだあなたを知らない人々に、あなたの愛を運び、私たちがあなたの愛の印となることができますように。私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。