カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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主の洗礼 マルコ 1.7-11

2021.12.10 (日)
 ご公現の祭日の後の日曜日はイエスの洗礼のお祝いの日、典礼的には、降誕節はこの日で終了します。4つの福音書共、主の洗礼がイエスの公生活においての最初の出来事になっています。30歳くらいの時、イエスはナザレからヨルダン川へ降り、大勢の人に混じって、ヨハネから洗礼を受けました。

イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受ける
 マルコ福音には次のように書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マルコ1・10−11)

ヨハネによる洗礼は「苦行・回心の洗礼」でした。水のシンボルを使って、人と心の清めを表していました。ヨハネは洗礼者、すなわち洗礼を授ける者、と言われ、イスラエルにこの洗礼を教え、広めていました。それは、間もなく訪れるメシヤを迎えるための準備でした。「自分の後に、自分より大きな者が来る。水で洗礼を授けるのではなく聖霊によって洗礼を授ける」と人々に宣言します。(参照:マルコ1・7−8)

イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時、聖霊が鳩の姿で降り、イエスの上に留まったのを見たとき、洗礼者ヨハネは、この方こそがキリスト、世の罪を取り除くために来られた神の子羊である、と確認しました。(ヨハネ1・29)

ですから、ヨルダン川での洗礼は一つの公現でもあります。メシアであるアイデンティティーの現れ、そして、あがないの業です。それは、“もう一つの洗礼”、すなわち、ご自分の死と復活で締め括られます。これによって、全世界が神のいつくしみの火で清められるのです(ルカ12・49−50)。

今日、私たちは、信仰共同体としてイエスの洗礼をお祝いしています。同時に、私たちの洗礼をも祝っています。今日の典礼で採り上げられている聖書の箇所を通して、私たちの洗礼の意味、すなわち、洗礼を受けた者としてどのように生きていけばよいのかを黙想しましょう。

第一朗読:神はご自分の民を育てる(イザヤ5・1−11)
第一朗読では、神が教育者としてご自分の民に向かっています。イスラエルの民に注意を促しています。間違った泉を探して、乾きと飢えを満たそうとしていることを。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」(イザヤ55・2)。神は私たちに食べ物と飲み物、私たちのためになる良いものを与えようとしています。しかし私たちは時々持っているものを良いように利用せず、無駄に使っています。場合によっては、害になっていることさえあります。

神は私たちにご自分の言葉を与えようとしているのです。私たちが神から離れると、すぐ問題に直面することを知っています。例え話に出て来る放蕩息子のように、人間の尊厳を失ってしまうのです。

ですから、神はご自身が無限のいつくしみであることを私たちに示し、約束してくださいます。神のお考えと歩まれる道は、人間のそれのようなものではないこと、神の言葉を受け入れさえすれば、私たちはいつも神に戻れること、その結果、雨が土を潤すように、私たちの人生に良い実りが齎されることを約束してくださいます。(イザヤ55・10−11)

福音書:洗礼者ヨハネ。イエスとの出会いに導く教育者(マルコ1・7−11)
今日の福音書と第二朗読においては、イエスに対する信仰を伝え、育てる、最初で最も重要なものは、信仰者の証しであることが記されています。

福音書では、洗礼者ヨハネはその弟子たちを証しをもってイエスに導いた偉大な教育者だったと述べられています。ですから、自分自身を高くしようとせず、また、弟子たちを自分に繋ぎ止めることも望まず、ただ、ひたすらに、イエスの導いたのでした。ヨハネは偉大な預言者であって、彼の評判はとても大きいものでした。

イエスが登場した時、ヨハネはひき下がります。そして、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。...わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1・7−8)と、ただ、ひたすらに、イエスの到来を人々に告げたのでした。

真の教育者は、弟子たちを決して自分に繋いで所有物にすることは望みません。ただ一つのこと、真理を学ぶように、そして、しっかりと一人一人がその真理と結ばれるようにとを望むのです。

私たちの洗礼の約束を新たにしましょう
今日、イエスの弟子であることを聖霊に願いましょう。私たちが受けた洗礼が、単なる宗教的な儀式に留まることなく、信仰者としてどのように生きていけば良いのかを絶えず振り返るための原点となるように願いましょう。私たちは、洗礼がキリスト者にとっての根本であることを忘れるのです。洗礼はキリストの命、死と復活に与ることであることを思い起こし、すべてのキリスト者がその神秘に与れますように。洗礼によって、私たちは子であるイエスによって神の子とされ、イエスの弟子になります。ですから、イエスのようになる努力を倦むことなくしなければならないのです。常に神のみ胸を探し求めながら、隣人に対してもっと寛大で、慈しみを持てるようにと祈り、求めましょう。

祈り
イエスに従うものとして、私たちの洗礼の約束を新たにしましょう。現代社会の中で、共に生きる私たちを通して、イエスが誰であるかを証しすることができますように、
もっと人間的で兄弟的な社会を築くための道が、イエスの福音であることを人々が発見できますように主に祈りましょう。

私たちの父である神よ、新型コロナウイルスが齎したパンデミッックによる危機の中で、イエスの洗礼をお祝いしている私たちが、キリスト者としての喜びをもって生きることができるように助けてください。洗礼者ヨハネのように謙遜でありますように。メシアはイエスであって、私たちではないことをいつも忘れず、この新たな年にあっても、私たちが、あなたの愛といつくしみの道具でありますように。
わたしたちの主、イエス・キリストによって。
アーメン。