カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第21主日 ヨハネ 6・60-69

2021.12.22 (日)
みなさん、
聖母の被昇天のお祝いの後である今日、ヨハネ福音書第6章の最後の部分が読まれました。この章はパンの増加に続き、翌日にカファルナウムのシナゴーグでイエスが話された、長い教えについて書かれています。それは内容の濃い箇所です。ですから、今日の説教では、ヨハネ福音書のコメントに集中します。最後に他の箇所について短く触れるつもりです。

ヨハネ福音書6:60−69:命のパンについての教えの最後の部分
 一人の少年が五つのパンと二匹の魚を提供し、五千人の人々が食べた出来事の翌日、イエスはカファルナウムのシナゴーグでこのスピーチをなさり、あの奇跡の意味は、「神が人類に与えた、まことのパンはイエスご自身(新しいマナ)である」ということを説明されたのでした。
 人々と弟子たちは、イエスが奇跡的なしるしを行うので、盛り上がっていました。特にこの最後のしるし、幾人もの人々に無償で食べさせたことを目の当たりに体験して、イエスこそが、旧約時代に預言者たちが約束したメシアである、と彼らは信じました。そして速やかに、イエスが王である、と宣言したかったのです。しかしイエスは、それが神の望みではないと言われ、ご自分の望みでもなかったことを明らかにしました。そのために、弟子たちの多くもイエスに対して失望しました。

 イエスの説明は人々を失望させ、受け入れることは難しかった
 パンの奇跡を通してイエスは、ご自分が命を献げるために派遣されたことを明かされました。イエスに従いたい人たちは、愛の犠牲によって自分を献げ、個人的に深く彼に結ばれなければなりません。
ですから、イエスは、最後の晩餐で聖体の秘蹟を制定されました。弟子たちがイエスに常に結ばれていられるように、イエスに与えられた使命を全うするため、国々のために救いの道具になるように、と。
 イエスの話を聞いた人々は、イエスは彼らが望んでいたメシアではないということを理解しました。彼らは地上の王を望んでいたのです。イエスは、エルサレムを征服するために人々の同意を求めていたわけではありません。預言者たちの運命を分かち合うために、イエスは聖なる都へ行き、神と民のために命を献げようとしたのでした。
 あのパン、大勢の人々に分け与えられたあのパンは、勝利の行列をするためではなく、十字架の生贄を宣言するためのものでした。そこで、イエスは、人類の救いのために献げられた体と血であるパンになられたのです。
イエスがこのように教えられたのは、群衆に希望や期待をさせるためではなく、弟子たちに決断をさせるためでしたが、彼らの多くは離れていきました。


現代の私たちにとっての解釈と理解の問題
 弟子たちと人々に、そして初代の教会の信者に、イエスの言葉が生じさせた中傷や不理解は、現代の私たちにも起こり得ることです。その一つはミサに対するまちがった解釈です。
 多くの場合、迷っている弟子たちのようにもなっています。
すなわち、イエスを命のパンとして食べなければならないと言われたのは、ナザレのイエスを食べなければならないという意味ではありません。私たちも、しばしば、ヨハネ福音書のこの箇所を文字通りにとってしまう間違いを犯します。従って、強調しなければならないことは、聖変化したホスチアをいただく時には、復活されたイエスを食べ、そしてこのイエスとの交わりに入るということを思い出すことです。ご聖体は、キリスト者にとって最高の信仰の秘蹟です。そこで、ミサの中で聖変化の後、司祭が「信仰の神秘。」と唱えるとき、会衆は歌いながら「主の死を思い復活をたたえよう、主が来られるまで。」と答えるのです。ペトロや他の弟子たちが、イエスとこのように結ばれて生きたなら、カファルナウムの危機の後、イエスから離れることはなかったでしょう。人生の試練が訪れても、イエスから離れることはない。復活されたイエスの霊が、最後まで歩み続けるために必要な力を常に与えてくださるのです。

第一朗読(ヨシュア記24:1〜2a、15〜17,18b)
 イスラエルは出エジプトの後、約束の地で、国としての組織づくりが必要となりました。なぜなら、そこに住んでいた民族は、異なる文化や宗教を持っていたからです。この現実を前にしたモーセの後継者であるヨシュアは、全ての部族をまとめなければならないと気づきました。しっかりした決まり、そして共通の宗教、信仰心が必要であると考えました。そこで出エジプトの神がモーセに与えられた、十戒に基づく組織づくりを提案し、この同じ土地に共存するため、互いに助け合い、守るために契約が必要であると告げます。
 この、イエスラエルの民としての新しい誕生の出来事は、シケムの契約として知られています。

第二朗読(エフェソ5:21〜32):
 新しい神の民は教会である、とパウロは強調しています。教会は死んで復活し、ご聖体に現存しているイエスを本当に信じている人たちの共同体であること、このイエスこそが預言者たちが伝えた、まことのメシアであることを強調しています。
教会は人間的な共同体です。それぞれ異なった人種、言葉と文化で構成されています。しかし、復活されたキリストへの信仰と、イエスが述べ伝えた福音の、人生の理想、目標で結ばれています。
 ペトロとその仲間たちのように、私たちもイエスの言葉で新たに驚かされますように。
ご聖体の秘蹟の意味を再発見できますように。
イエスである命のパンを与えてくださった聖母マリアが、私たちに、いつもイエスと深く結ばれて生きることができるよう、教えてくださいますように。