カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第11主日 マルコ 4・26-34

2021.12.13 (日)
兄弟姉妹のみなさん

 キリストの聖体の次の日曜日の今日、年間の第11主日を迎えます。そして、典礼の暦は11月21日「王であるキリスト(第34主日)」で終わります。今日朗読された神のことばは、神が人の歴史の中でどのように働かれているかを伝えています。私たちの日常生活に溶け込んでいる神の姿は、多くの場合は、痛ましい戦争や自然災害の中で歩んでいる神です。神は絶対に私たちを見捨てられることはありませんが、神の行動は私たちの考え方とはしばしば異なり、私たちを驚かせるのです。
 預言者エゼキエルは、レバノン杉がどのように植えられ、成長するかということで、神の働きを表現しています。福音書には二つのたとえ話があります。蒔かれて成長する種、植物。これらのたとえ話を通して、神がどのように働かれているか、知ることができるでしょう。特に、私たちがこの一年半にわたって直面している、パンデミックについて理解するための助けになるのではないでしょうか。

第一朗読 エゼキエル17・22−24:レバノンの大きな杉
 預言者エゼキエルは、神の働きを、荒地のイスラエルの山々に農家の人が杉を植えているところに例えています。その特徴は大きくて背の高い杉、その強健さ、特にその美しさです。杉が死んで、もう一度生まれるこの例を通して、エゼキエルはイスラエルの国が滅んで、再び生まれることを表しています。
 神が敵の弾圧から民を救うメシアを送られる希望に支えられて、国が生まれ変わることを表しています。神が小さな柔らかい枝を荒地のイスラエルに植えて、そこで大きな杉の木に変えることができるとエゼキエルは表明しています。ダビデの子孫から生まれるメシアが来られる。それは、確実にそうなるということ。メシアへの希望は、この時点では若い枝のようなものです。イスラエルが神の言葉を信じるなら、時と共に成長し、待ち望んでいるメシアが訪れるであろうというのです。
 新しいイスラエルは、高いユダの山の上に植えられた若い枝のようなものであることを強調しています。君主制の傲慢は過去のものになり、権力を求めること、過度の欲を持つことの危険が、小さな国を何度も破滅に陥れました。
預言者が抱いている希望は、脱出の後、民が生まれ変わること。そして杉が2000年もの間生きるように、民の系統が生き残るようにということでした。

第一のたとえ話:ひとりでに成長する種(マルコ4・26−29)
 このたとえ話は、イエスが語った中で最も美しいものです。短く、確実で、希望に満ちています。このたとえ話は、種が蒔かれて収穫に至るまでの成長のイメージを通して、神の国の訪れを語っています。土が実らせるのだと。このたとえ話の導入部分にあるように、種が蒔かれる場所が重要な訳ではありません。また、収穫はとても大切ですが、それを強調している訳ではありません。大切なことは、この植物がどのように成長するかということ。つまり、人間の手が入ることなく成長するということです。
現代人にとっての常識と少し違うのではないでしょうか。現代人は、植物の成長がどのように起きるのか、なぜ実るのか、生物学的プロセスの情報を持っています。どんな農業技術を使えば、植物がもっと速く、あるいはゆっくり成長するのか、大きく、または小さくさせられる、その方法も知っています。
 現代の農民の仕事は種まきでは終わりません。茎が伸びる前には、除草剤、殺菌剤、殺虫剤や成長を調整するものを使い、茎が伸びすぎないように、強い風に折れないように、あるいは収穫しやすいように調整します。
 イエスの時代のガリラヤでは、そうではありませんでした。たとえ話は、蒔いたものに人が介入することは不可能であると言っています。農民は待たなければなりません。土地そのものが決め、人間は何もできないのです。成長の奇跡を理解し、そこに介入することはできません。創造主である神の力がそこに働き、収穫は、最後のプレゼントです。
結論として、このたとえ話は神の統治の訪れについてであると言えます。しかし、その統治は、種まきが行われた後であろうとは言っていません。徐々に訪れるとも言っていません。穀物が成熟するような形で表すことではありません。ここでまず言われていることは、神の国の訪れを人が強制することはできない、特に熱心党の人たちが考えていたように、権力でそれを可能にするものではないということです。力づくではできない。人間はただ待つことしかできません。神ご自身が神の国の基であり、そしてそれを実現する方も、また神だからです。
 このたとえ話は、創造主の力と歴史の中での神のパワーについて強調しています。神がご自分の業、救いを実現することを誰も妨げることはできない。人間の応えは落ち着いて神に信頼して待つことなのです。

イエスのたとえ話は、神の統治について語っている
 コメントしたこのたとえ話は、神の国についてでした。突然で驚きの出現をし、そして魅了します。イエスは、すでに神の国は訪れていると言います。そして、人間的な国に対して、神の国の勝利が疑いないと語っています。
しかし忘れてはいけません。神の国についてイエスの宣言は矛盾を起こしました。人々は疑問を投げかけました。神の国の変化はどこにあるのか。この国では何も変わっていない。ローマ人はまだ支配している。彼らに協力する人はもっと金持ちになり、貧しい人はもっと保護されない状態になる。裏では、すべてはそのまま続いている。今、あなたと一緒にガリラヤを巡っている、小さくて無力なグループが本当の新しいイスラエルの始まりになるのか、という疑問。もし神が介入するのであれば、送られたメシアを通して、その働きはもっと違う形ではないのか。余儀なく力強く、抵抗できない、一瞬ですべてを変えられるのではないか。
 イエスに投げかけられた多くの疑問、異議、蔑視に対して、イエスはしばしばたとえ話で答えられましたのでした。

第二のたとえ話:からし種(マルコ4・30−34)
 からし種のたとえ話は、とても短く話されました。イエスは聞く人たちが毎年目にしていてよく知っている世界と、神の国を比較しているからです。イエスは神の国にたとえている「からし種」は、多分、「クロカラシ」について話しているのではないでしょうか。その種はとても小さく、一粒が約1ミリグラム、直径0.9〜1.6ミリメートルです。しかし1年後には木のように枝を張る植物になるのです。成長したカラシの植物の高さは平均1.5メートルになります。ガリラヤ湖に面して3メートルになるものもあります。
このたとえ話も神の国について話しています。しかし、神の国をからし種そのものに例えているのではありません。神の国をその種、あるはその成長した植物にたとえているのではなく、植物全体の成長についてたとえています。神の国は静止しているのではなく、躍動的なものなのです。
 神の国はまだ小さい。目立たずに、人が通り過ぎてしまうもの。表面的には効果がないように見えます。しかし、成長し、広がると、どんどん強くなって、空の鳥が巣をつくるようになります。神の国はとても小さく、取るに足りない、その民は小さな群れなのですが、小さな始まりから、そこに新しいものが成長し、一つの国、普遍的で新しい社会が出来上がるのです。
 神の国はその当時の帝國の政治家の思い描くものとは無縁です。その代わり、イエスは弟子たちに次のことを言っています。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカ22・25−26)
たとえ話が展開するのは、地味な本物の野菜畑、あるいは農家での出来事。そのような現実の畑で起きます。たとえ話の始めは普通の日常生活の例で、イエスは神の国を野菜と緑の栽培に例えています。イエスは畑の、ある野菜について話しています。ですから聞くは人にとって効果的なのです。
 イエスは神の国について話されるとき、用いるイメージとして、聞く人たちが知っている日常の世界で起きていることを選びます。神の国は遠いところにあるものではない。終末論的な嵐の中で到来するものではない、と言われます。からし種のような植物の成長、すでに今、聞いている人の間で起きていること、イエスの周りで起きていることを信仰の目で見ると、すでに神の国を見ることになります。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。」(ルカ10・23)

結論
 この二つのたとえ話が強調しているメッセージは明らかです。すなわち、成長は種の中にある活力で起きるという神秘と、小さな種でありながら大きなものを齎すという神秘、二つの神秘のコントラストです。そして、神の国は私たちの協力を求めますが、何よりも主の賜物であり、人間と人の行いの先にある恵みです。
 私たちの力は小さく、世界の問題に対して表面的には無力のように見えますが、神の力が加わると、困難を恐れないものになります。なぜなら、主の勝利は確実ですから。神の愛の奇跡は、この地上に蒔かれている種を芽生えさせ、成長させます。
この愛の奇跡の体験が、私たちを楽観的にします。困難や苦しみ、悪に出会っても、私たちは明るい見通しを持つことができます。神の愛に養われて種は芽生えて成長するのです。