カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第15主日 マルコ 6・7-13

2021.12.11 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 今日の神の言葉は、私たちそれぞれが今生きている社会の中で、死んで復活したイエスの福音の証し人であるように呼びかけています。洗礼を受けた人はすべてイエスの弟子であることを忘れてはいけません。キリスト者として、私たちがいただいた信仰をまず子どもたちに伝えること、そして、助けを必要としている兄弟姉妹と連帯感を持ち、まだイエスを知らない方たちにイエスの福音を伝える責任があります。

第一朗読はアモスの預言書の一節で、今日の福音をよりよく理解するためのよい助けとなっています。そのわけは、アモス預言者が直面した状況は、イエスと弟子たちが直面した現実はとても似ていたからです。同じように、私たちも注意深く神の言葉を味わうことによって、御言葉を通して神が私たちに何を伝えようとされているかを発見できるよう願いましょう。

第1朗読:アモスが直面した預言者としての困難(アモス7・12−15)
 今日の第一朗読で読まれた箇所はごく短いもので、アモスが預言者としての使命に呼ばれたことが記されています。アモス書はそれほど長くないので、一気に読むことができますが、歴史的な背景を知ると、アモスが神から委ねられた使命をより深く理解することができます。
 当時、アマツヤという王の祭司がいたのですが、彼は、王であるヤロブアムが正しく民を統治していなかったことを訴えたアモスを邪魔に思い、追放しようとしました。アモスは、王が回心してその生き方を変えなければ、国は僅かな時間でアッシリア帝国のものになる、アッシリアの兵隊が攻め入って国を踏みつけ、王自身も、すべての人々と一緒に追放されるであろうと訴えていたからでした。
 しかし、残念ながら、王はアモスの忠告にではなく、祭司の言うことに耳を傾けたため、サマリアを中心とする北の国はアッシリアのものになってしまい、紀元前740年には、王とその側近はニネベに追放されてしまったのでした。(この歴史は列王記下17章にあります)。

福音:弟子たちにとって、新しい局面がスタートする(マルコ6・7−13)
 イエスの弟子たちにとって、新しい段階の生活が始まったときのこと、すなわち、イエスの福音を伝えるための12人の弟子たちの派遣に際して、イエスが弟子たちにどのように諭されたか具体的に語られています。イエスの諭しを胸に、12人は熱意に燃えて人々のもとへと出かけて行ったことでしょう。病人を癒し、悪霊を追い出したと記されています。
実際に使命を果たすときには多くの困難があります。ですから、お互いに支え合うようにと、一人ではなく二人ずつ一組になって出かけるようにとイエスはお命じになっています。因みに、聖霊降臨の後、弟子たちは遠くの国に福音を伝えに行ったときも、同じようにしました。聖パウロも、地中海でミッションを行っていた時、誰かが一緒にいました。思えば、12人の弟子たちだけでなく、私たちもイエスの弟子として、主イエスの名によって現代社会へ派遣されています。ですから、今日の福音のみ言葉からたくさんのことを学びましょう。

どう受け止めたらいいのでしょうか?
「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
足の裏についたホコリを払い落とすことは、人の前ですることで、それは、非難と訣別の意味を持っていました。しかし、この動作は、福音を伝える人の不寛容の印とも読めます。しかし、イエスが弟子たちに不寛容の心を勧められたはずはありません。では、イエスはこのことばで弟子たちに何を教えようとなさったのでしょうか。

イエスが弟子たちに教えようとなさったのは、次のようなことだったのではないかと思うのです。すなわち、拒否されることや、受け入れられないことにも出会うだろう。そのときは、よい知らせなのだからと無理強いをするのではなく、そこを潔く去って、時のくるのを待つようにしなさい、と勧められたのではないでしょうか。どんな人に対しても、良い知らせなのだから、それを受け入れるようにと強制することはできないこと、他の人への尊敬と忍耐を持った宣教の仕方が必要なこと、焦らず、新たなチャンスを待つようにと伝えようとなさったのではないでしょうか。
 振り返ってみますと、私たちの福音宣教においては、イエスとは逆のやり方がされていました。時代と人に押し付ける。強制的に、ときには武器を持って。そうでなければ、法律、あるいは、社会的プレッシャー、精神的プレッシャー、地獄に落ちるという脅しなどを押し付けながら。

福音宣教の新しい息吹:教皇ヨハネパウロ2世と教皇フランシスコ
 わたくしは若い神学生の時、ヨハネパウロ2世のメッセージを読みました。それは1979年、メキシコのプエブラでの司教大会に出席されたときラテンアメリカに向けてなさった「新しい福音宣教の精神」についてのメッセージでした。教皇様のご指摘は、今まで通りの形で福音宣教を続けるのは駄目ということ、多様な新しい状況に勇気を持って向き合い、対応しなければならないこと、新しいグローバル化、国の状況、民族や文化が刻々と変わる中で、福音宣教の精神を新たにすることが急務であること、それには、人々の熱意、新しいメソッドと、新しい表現が必要であることなどでした。
 そのお考えを引き継いで、教皇フランシスコは、言葉や行動、さまざまな国への訪問、カトリック信者との交わり、また他の宗教的なグループの人たちとの出会いを重ねながら、現代社会に相応しい新しい福音宣教の道の模索の先頭に立ってこられ、そのお考えを2013年11月24日に出された最初の使徒的勧告“Evangelii Gaudium”(福音の喜び)の中で熱く詳細に分かち合って下さっています。

 この新型コロナウイルスのパンデミック直前にあった教皇様の来日を思い出しながら、キリスト者である喜びを新たにし、喜びの福音を宣べ伝える使命を共に果たすことを父であり主である神に約束しましょう。