カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第2主日 ヨハネ 1・35-42

2021.12.17 (日)
 私たちの教区では新型コロナウイルスの感染拡大によって2月7日まで公開ミサがありません。幸い、インターネット等を利用すれば、オン・ラインで、教皇様のミサにすらアクセスでき、霊的聖体拝領をすることもできます。しかし、多くの方々には、より行いやすい方法、すなわち、日曜日の典礼パンフレット(「聖書と典礼」)を手に入れ、自宅にありながら、神と教会と心を合わせて、み言葉に耳を傾けることをお勧めします。

典礼暦年の中での位置付け
 典礼暦によると、主の洗礼の日曜日で降誕節が終了し、年間が始まります。灰の水曜日(今年は2月17日)で中断し、四旬節が始まります。そして聖週間に入り(今年は3月28日から)、聖なる3日間を迎えます。そして、復活節には6回の日曜日があり、その後、主の昇天を祝い、聖霊降臨で終わります(今年は5月23日)。そして、年間第11主日(今年は6月13日)に戻ります。
 皆さんがよく御存じのように、典礼暦では主日のミサでの聖書の朗読箇所は3年周期となっていて(A年、B年。C年)、今年はB年に当たり、福音書は主にマルコが読まれます。しかし、マルコ福音書は短いためもあって、第2の日曜日の今日はヨハネ福音書が読まれます(ヨハネ1・35−42)。教会は、私たちの弱さと私たちの忙しい日々を過ごしていて、聖書を読む時間を作ることは難しい私たちのために、定期的に日曜日のミサに参加することによって、3年周期で聖書の重要なページを聞いて、読むことになるよう配慮がされているのです。どの福音書のどの章、どの節かは正確に分からなくても、子どもの時からミサに参加してきた人たちは、様々な機会に聖書の多くの節を何度も聞いているでしょう。今日朗読されたサムエルの召命のエピソードや、ヨハネ福音書に書かれているイエスの最初の弟子たちの召命は、私たちの記憶の中にあり、キリスト者である皆さんの文化的アイデンティティーの一部になっているのではないでしょうか。 
 このように、典礼は私たちの記憶を新たにするチャンスを与えてくれます。ですから、典礼暦の導きに従って、神のいつくしみに再び心を開くことは、パンデミックの中で前に進む力をいただく素晴らしい機会となると思います。

第一朗読:母親によって神に捧げられた少年サムエル(サムエル上3・3−10、19)
 サムエル記はサムエルの少年時代を紹介しています。彼は母親の約束によって神殿で神に捧げられました。少年サムエルは寝ています。しかし、ひとつの声が彼を呼びます。自分の先生のエリの声と思い素直に立ち上がって、三度もその呼びかけに答える。サムエルはまだ神を知らない。しかし、従順であることを知っています。呼びかけに答えることも知っています。最初は無駄に起きたように思われても。3度目の時エリが気づいたのは、少年を呼んでいるのは神であるということ。そこでサムエルに聞く姿勢を教えました。「主よ、お話しください。僕は聞いております。」(サムエル上1・10)

 この場面を黙想しましょう。この場面が私の人生のある時を、特に神との出会いの体験を思い起こさせます。例えば、私の人生に意義ある変化がもたらされた時、新たな自覚の時。あるいは自分の故郷を出て日本に来る決断をした時のことを、そこでの闘い、あるいは希望のことを思い出させてくれます。サムエルが私たちに呼びかけているのは、今日この場所で、自分が生きているところで、神の声を聞くことなのです。

第2朗読:私たちの体は神の神殿である(�@コリント6・13−20)
 パウロはコリントの第一の手紙の中で、私たちの体は神殿であることを思い起させてくれます。そして、私たちはキリストに結ばれるように呼ばれています。ですから、何が、神とイエスの福音に近付かせるのか、何が遠ざけさせるのか、常に判断しなければなりません。私と神との関係は、私たちの人生のすべての側面と関係していることを忘れてはいけません。祈りと霊的生活、仕事、人間関係、政治、体のメンテナンス、等など、どんな時でも神は私たちと共にいてくださることを忘れてはいけないのです。多くの場合、神は沈黙であると感じるとしても、特に苦しんでいる時、暗闇の時、神は私たちをお見捨てにはなりません。

福音書:探究とイエスとの出会い、午後の4時ごろ。(ヨハネ1・35−42)
 今日の福音書で、ヨハネは最初の弟子との出会いを語っています。ヨハネはこの出会いが午後の4時と指摘しています。第一朗読の黙想に従って、私たちの「午後の4時」を考えましょう。すなわち、神の現存を特別に感じた時、もしかしたら、私の人生に変化を齎した現存の時のことを考えてみましょう。ヨハネ福音書によると、イエスの最初の弟子たちは洗礼者ヨハネの最初のグループに属していました。ヨハネ自身は、弟子たちが自分を離れてイエスに従うことに何も問題を感じていません。イエスはヨハネのライバルではありません。イエスかヨハネか、ではないのでした。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3・30)

 イエスに従い始めた彼らは、イエスがどこに住んでいるかを知りたかった。それを見た彼らはイエスに留まり、イエスがメシアであることを確信しました。住んでいる場所が、その人がどういう生き方をしているかを示しているのです。

 このエピソードでは、弟子たちが一緒に生活し始めた時から、イエスがメシアであり救い主、あがない主であることを告白しています。そしてイエスは、最初から、ヨハネの子、アンデレの兄弟であるシモンの名前を変えました。ケファ『岩』と言うようになりました。ヨハネがこの福音書を書いた時、最初のキリスト者の間では、ペトロの姿は既に石、岩として認められていました。
 結局、イエスに従った人たちが興味を持っていたことは、「イエスが何を言うか」というより、「どのように生きていたか」でした。イエスの生き方、人生の計画(神の国)が彼らを引きつけ、感動させ、他の弟子たちを魅了したのです。
イエスに従う、イエスと共に歩むには、イエスとの出会いの体験なしでは不可能です。語られたこと、神学的理論も含めて、それそのものは役に立ちません。私たちの心は、人の生きる姿によってのみ揺り動かされます。

祈りをもって終わりましょう。
・主よ、命を与えてくださったことに、様々な時、困難に直面したにもかかわらず、常に私の傍にいてくださったことに感謝いたします。暗い時、特に苦しみでいっぱいの時、信仰を与えてくださったおかげで、それらの困難を乗り越えることができました。私の感謝が、私の人生の中で、あなたが会わせてくださった全ての人に届きますように。主よ、感謝いたします。
・青年のために特別にお願いします。彼らがこの世においての使命を、熱意と決断をもって発見することができますように。そして、勇気と誠実さをもって生きることができますように。また、もっと大きな奉仕に招かれていると感じた時、寛大さと謙遜をもって御国の真の奉仕者となることができますように。

祈りましょう。
・神よ、あなたは常に歴史の中にあって、ときのしるしを示し、心の深いところで、特別に呼びかけてくださいます。あなたの呼びかけに注意深く耳を傾けられるよう霊を送って下さい。あなたが、王であるイエスの福音によって、新しい社会を築くよう示している道を、私たちがいつも探し求め、見つけることができますように。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。