カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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聖霊降臨の主日 ヨハネ 15・26-27、16・12-15

2021.12.23 (日)
兄弟姉妹の皆さん
 今日は聖霊降臨をお祝いしています。
 復活の主日から50日目に当たり、このお祝いによって復活節が終わります。この祭日に、マリア様と使徒たち、そして他の弟子たちがセナクロで集まり、聖霊に満たされたことを思い出し、私たちも、もう一度、聖霊の息吹を受けて新たに生きるよう招かれています(使徒言行録2・1−11)。

 イエスは復活して天に昇り、聖霊を教会に送りました。それは、私たちキリスト者が同じ神のいのちに与り、世の中で証し人となれるためです。イエスは歴史の中で私たちを訪れ、荒地に打ち勝ち、希望へと心を開き、私たちの神と隣人への内的成熟を促します。

 今日は、聖霊降臨の前夜に読まれた第一朗読から黙想をしたいと思います(創世記11・1−9)。バベルの塔の話です。ルカは聖霊降臨の出来事でこの物語を完成させます(使徒言行録2・11)。ですから、バベルの塔の物語をもう一度読むことが、今のこの時に相応しいでしょう。普通はこの箇所は読みません。なぜなら私たちは、聖霊降臨の日中のミサに参加していますから。

バベルの塔の歴史(創世記11・1−9)
 当時は、世界中で同じ言語、同じ言葉で話していました。
人が東から移住し、シンアルの国で平野を見つけ、そこに定住しました。お互いに言い合いました、「れんがをつくり、それをよく焼こう」と。
石の代わりにレンガを使い、漆喰の代わりにアスファルトを使いました。彼らは言いました、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と。
 主は降りて、人が建てた町をご覧になりました。そして言われました。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう。」と。
主は彼らを全地に分散されました。彼らは町づくりをやめました。ですからバベルと言われます。主が地上の全ての言葉を混乱させ、そこから彼らを分散させたからです。
 
 バベルの塔の本当のメッセージ:複数の文化の中に共存することを学ぶ
私たちはこの箇所から、もっと現実的な読み方をしなければなりません。なぜなら、塔の建設の失敗は、神の計画までも失敗したように思わせてしまうからです。このような結論は、創世記を書いた作者の意図から遠く離れています。その上、このエピソードは、神に創造された私たち人間が生きている現実を描いています。特に今の時期、人類は幾千の人種、民、文化、言語で構成されているという意識があります・・・。そして、たくさんの戦争にも拘らず、共存できることは奇跡でもあります。この地球は、私たち人類が生きることのできる唯一の、そして共通の家です。現代社会の大きな町でも、バベルの塔のような環境があります。複数の言語、文化、アイデア、生活スタイル、そして違う意見を排斥しようとする問題と、この地上に住んでいる人々同志の理解の不足があります。お互いの多くの違いの中で、どのように共存して理解し合うことができるのでしょうか。

 この状況は、先進国で特に深刻になっています。それらの国々には大きな町があり、そこに来る様々な人を受け入れなければなりません。農家、地方、他の県からの移民、かれらは自分の持っている全てを捨て、仕事、住まい、生活費と生活の質の向上を求めてやって来るのです。

 気候の変動や戦争が原因の、群れの移動、大勢の人の移動は、何も新しいものではありませんが、近年ではその問題と課題が大きくなっています。絶望的な状態で、自分の国を捨て、先進国の扉を叩く、毎日のように起きていることです。たとえ危険と分かっている船旅でも、向こう側に辿り着く幻想をいだいて・・・。そして、たどり着き、移民として、ある場合には難民として、入国を許可されると、そこから本当のカルバリオ(十字架の道)が始まります。それは、彼らが本当の尊厳ある生活を手に入れるまで。そこに住んでいる人たちの生活レベルに達するまで。私たちの世界は、バベルの塔の二の舞になってしまいます。このバベルという言葉は、神々の扉という意味です。このような名で呼ばれていました。人類のシンボルである、都市文化の先駆者とも言われます。塔を囲む町、一つの言語と一つのプロジェクト、天に上って神聖なエリアに侵入する。人は神のようになりたくて、それを手に入れるために一緒になりました(画一化)。それは、違いを認めての一致ではなく、皆が同じなになるということだったのです。

 しかし、プロジェクトは失敗でした。人類の発展の初めから、熱心な神は言葉を混乱させ、神々の扉を閉じてしまったのです。もしかしたら、あのような世界、画一化された世界は存在しなかったかもしれません。力を持ちたいという人間の欲望の誘惑だったかも。神の罰の後、言葉の違いが共同生活の一番大きな妨げになり、それが人類の分散の源になりました。

 これを書いた人は、多様性の豊かさを考えず、神のやり方を罰として解釈しました。しかし、そこに記されているのは、神が初めから多様性を考え、地球の人々を言葉の違いでばらばらにしたことです。

聖霊降臨の物語
 創世記が書かれて6世紀の後、使徒たちの宣教を通してもう一つの物語があります。聖霊降臨の後に起きたことが書かれています。収穫の祭りで、ユダヤ人たちはシナイ山で神と民が契約を結んだことを思い出します。エジプトから出て50日目(聖霊降臨)、弟子たちは集まっていました。復活から50日目でした。師が、蒔かれた種のみのりを収穫するために。聖霊の訪れは出来事を通して描かれています。感じられる「現象」のように書かれています:激しい風の音のように、焼き尽くす、あるいは清める舌の形の火のように。表現できないものを著した、ルカが選んだ表現です。聖霊の訪れは、彼らを怖れから解放し、自由にイエスの死と復活の良い知らせを宣言させます。

 ですから、聖霊を受けて違う言葉を話すようになりました。「ほかの国々の言葉」で話し出した。この現象の意味を説明するために、他のデータは私たちにはありません。それはそれほど重要ではないのです。大切なことは、イエスのこの動きは、世界と全ての人に開かれて生まれたものであるということです。神が望んでいるのは画一化ではなく多様性。対峙するのではなく対話。新しい時代が始まり、みんなが兄弟になれるということを宣言すること。仕方なくではなく、違いのお陰で新しい時代が始まりました。コミュニケーションを妨げる違いをのりこえて、理解し合うことを可能にするのです。

 これが神の霊です。なぜならこの神の霊は一つだけのトーン、標準化の霊ではない。様々な言葉、様々な音からなる協調の霊です。いろいろな見方の人を一つにします。聖霊降臨の火のように、もっと言葉があればバベルのように混乱が生じなかったでしょう。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。神は理解し合う奇跡を可能にしました。

 このように、神が望んでいた新しいバベルが始まりました。悪い意味での標準化から離れて、多様でありながら、調和している。私たちもこのようなことを再現できるように。金持ちと貧しい人の間に、そして先進国と発展途上国、あるいはまだその段階にも達していない国の間に壁を建てないことを望みます。

 聖霊の訪れは、あの小さな一握りの弟子たちにとって怖れの終わりでした。共同体の扉は開きました。人間の模範のように、火のように燃えた共同体が誕生しました。パウロは言っています「主の霊のおられるところに自由があります。」(②コリント3・17)。そして、自由と自立があるところには、一致の道として多様性と個人主義が促されます。真理が光り輝きます。なぜなら、霊が真実であり、真理の本質、命へと導くからです。ヨハネが福音書に記しているように(ヨハネ16・13)。

 私たちの世界に、新しい聖霊降臨を待ち望んでいます。不寛容と妥協のない波が押し寄せている状況を終わらせるためには、世界に新しい聖霊降臨が必要です。世界平和の実現のために、全ての宗教的グループが協力しなければなりません。私たちの祈りと、より良い生活を求めて他の国から来る人々を受け入れながら。

祈り
・ 聖霊降臨の霊が、今日教会の全ての人の上に注がれ、聖霊がすべての男女、人種、宗教の中で起こす変化の発酵のこの上ない触媒になれますように。
・ 現代社会で戦争や内戦があるところに、全ての民の中で働く神の霊が、徐々にバベルの塔の混乱を乗り越えさせたときのように、和解と平和に導いてくださいますように。