カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第5主日 マルコ 1・29-39

2021.12.7 (日)
 今日の説教では、先週日曜日(年間第4主日 B年)の福音についての黙想を続けたいと思います。イエスがカファルナウムでお始めになった公生活の始めの出来事を、マルコ福音書に従って辿って行くことができます。皆様もよくご存じのように、マルコの福音書が4つの福音書の中では最初に書かれたものとされています。その後、マタイとルカの2つの福音書が書かれ、それぞれに独自のものを持っていますが、この3つの福音書には共通の箇所が多くあるため、教会の伝統では、共観福音書と呼ばれます。ヨハネ福音書は、この3つの後に書かれたものであり、別の資料を基にして書かれたものと考えられています。

 私たちの教区では、公開ミサの休止が1ヶ月間延長されました。「国や県の行政による緊急事態宣言や、営業、移動の自粛が出されている場合には、教区はそれに従い、会衆が参加するミサは中止する」という日本カトリック司教協議会のガイドラインに従って決定されたものです。

1 イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った(マルコ 1・29−34)。
 午前中、カファルナウムの会堂で、悪霊に取り憑かれている人を解放された後、イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行かれます。ここはとても大切な箇所です。なぜなら、イエスを中心として集まるキリスト教共同体が描かれているからなのです。イエスは、ユダヤ教の公式な場所である会堂から出て、家に移ります。それは、身内、愛される身近な人たちとの日常生活を表しています。この家でイエスの新しい家族が育てられていきます。

 家に入ると、弟子たちはシモンの姑のことを耳にします。彼女は高熱でベッドに横になっているので、客を迎えに出ることができないということ。ガリラヤ湖の周辺に住んでいた人たちは、恐らく沼から来る蚊が原因の熱病に悩まされていたのでしょう。イエスがこのことを知った時、再び「土曜日(安息日)の決まり」を破ります。イエスにとっては、宗教的な決まりを形式的に守ることよりは、人の健康的な生活を守ることの方が大切だったのです。
 マルコ福音書はイエスが姑になさったことを詳細に記し、イエスは姑に「近付いた」と記しています。イエスがまずされたのは、苦しんでいる人に近づくこと、そばに行くこと、近くによって、顔を見て、苦しみを共にすること、その後で、病人に触れる、清められたと書かれています。律法ではこのような病人に触れることは禁止されていましたが、恐れずに触れられた。この女性が、イエスの癒しの力を直接に感じられるようにと。最後に、癒した後に、イエスが「起きなさい」と言うと、彼女は熱が去り、すぐに立ち、一同をもてなすことができました。この出来事を通して、そこに居合わせた人々は、イエスは、人々の中に居てくださり、手を差し伸べ、立ち上がらせてくださる方であることを学んだのです。ですから、イエスに従おうとする人たちは、互いを受け入れ、面倒を見合いながら、助け合って生きていかなければなりません。

 しかし、キリスト教共同体が、自分たちのメンバーだけを家族として考え、他の人の苦しみを無視するとしたら、それは間違いです。今日の朗読箇所では、「日が沈んだ時」、すなわち、土曜日が終わった時、様々な病人や悪霊に取り憑かれている人たちが、イエスの所に連れて行かれました。
イエスに従う私たちは、この場面を心に刻まなければなりません。夜が訪れた時、村中の人が病人を連れてシモンの家の前に集まりました。苦しんでいる人の目は、希望を持って、イエスのいる家の入口の扉を探します。

 マルコ福音史家が、今日、私たちに伝えたいことがあります。苦しんでいる人たちは、苦しみを和らげ、病気を癒すイエスを教会で発見することができれば、本当に教会に引きつけられます。教皇フランシスコは強調されています。私たちの共同体が戦場の応急手当の場であるように。いつでもそこに行けば、助けを受けることができる場所であるようにと。

2 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈って
おられた。(マルコ 1・35−39)
 福音書が著しているのは、イエスの日常がどうであったか、その人生の中で祈りがとても大切で、いつも祈っておられたことです。イエスの生涯にあっては、病人を癒し、飢えている人に食べ物を分ける、そして、人々の苦しみを和らげることはとても大切な務めでした。この計画を実現するため、イエスは御父に祈ります。祈らなければならないことを強く感じ、いつも祈っておられたことは、福音書の中の至る所で知ることができます。(例えば、マルコ福音書なら、1・35;6・46;14・32、35、39)
祈りが単なる儀式に終わってはいけないのです。人間的な苦しみの中で祈るとき、それは神の体験という恵みの時なのです。祈りは緊急の必要性として感じられます。

 イエスは御父に祈る必要性を感じられたとき、会堂ではなく、人里離れたところ出て」行き、そこで祈られたと書かれています。イエスの祈りの姿は私たちに深いことを教えてくれます。イエスの祈りは、イエスが本当の人間であったことの明らかな証拠です。すべての人間と同じように、常に神の助けを必要としていることがその証です。

3 第一朗読(ヨブ記 7・1−7)についての短いコメント
最後に、第一朗読にあるヨブの苦しみについてのコメントで終わります。ヨブは友人の前で、自分自身の心と、失望を明らかにします。友人は、神がどういう方で、どのように行動するかをヨブに教えようとしています。彼らは、ヨブが苦しんでいるのは、彼が罪を隠しているためであると諭します。しかし、神はそれを知っています。私たちに言えることは、ヨブの友人は生活から離れたところで神を畏れる生き方のことを語るだけで、友人であるヨブの不平を理解できませんし、ヨブの痛みに寄りそうこともできず、ヨブには犯してもいない罪を感じさせ、その苦しみを大きくすることしかできません。
ヨブの叫びを聞くとき、私たちは多くの人々の日常生活の中にも同じような苦しみがあるということを気付かされます。この地球のいたるところ、多くの人が、健康、食べ物、仕事や教育、社会的差別のことなど、様々な悩み、苦しみの中にいます。それらに対して、戦わなければならない私たちには、ヨブと同じ叫びがあるのです。
ヨブ記が私たちに投げかけているのは、私たちにとっては簡単には解決できない問題、別の言い方をするなら、永遠の神秘である悪の実存的考察ということになります。3人の友との長い議論の後、自分の苦悩は、犯した罪の結果ではない、ということが明らかにされます。それはすべての人が直面する人生の試練であること、いつか、そこを通過し、向き合わなければならない、人間として成熟するため、神への信仰を強めるため、他の人の苦しみをもっと理解するために、必要な試練だというのです。