カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第32主日 マルコ 12・38-44

2021.12.7 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 もう11月になりました。王であるキリストの祭日(11月21日)で年間主日B年が終わり、28日、待降節の第一の日曜日からC年が始まります。いつになったら、この新型コロナウイルスが齎した危機を乗り越えて通常のミサに戻ることができるのか、まだわかりません。私たちが、日曜毎に典礼のために集められていることを神に感謝しましょう。また、新たなコロナウイルスの感染拡大を避けるために、予防対策への取り組みを守るよう、お互いに協力しましょう。

 今日、神の言葉は二人の女性を紹介しています。名前は書かれていませんが、教会は明白な、一つのメッセージを届けたいのです。それは、私たちがどのようなキリスト者であるべきか、ということです。そのためにイエスと預言者エリアがこの2人の女性についてどんなことを強調しているかを考えてみましょう。

第一朗読(列王記上17・10−16):一人のやもめがパンを作ってエリアに与えた
 第一朗読には、やもめが、持っているわずかなものを預言者エリヤと分かち合ったと書かれています。この箇所の背景は干魃です。イスラエルが苦しい状況に置かれている中でこそ、イスラエルの民が神を再び感じられるようにと、エリヤは、苦しむイスラエルのために神に願います。このような崖っぷちの状況を前にする時、誰でも、自分が持っているわずかなものを使わないようにします。なぜなら、餓死せずに生き残るためには、それが必要だからです。同じことを、このやもめもしていました。しかし、預言者に頼まれ、持っている唯一のものを分かち合いました。
 このやもめの行為はハッピーエンドで終わります。壺の小麦粉は尽きず、油もなくなりませんでした。

メッセージ
 わずかに持っているものを、寛大な心で分かち合うと、不思議にも、そのものは増えるようになります。それが貧しい人のもつ大切な特徴です。貧しい人の間には、分かち合おうとする姿勢、心の自由さ、差し出す寛大さを見つけることができます。彼らの間に神の現存が見えます。ですから、彼らはこの世において、神の秘跡(姿を現すしるし)のようなものです。それが私たちにとっての呼びかけになります。苦しんでいる人や、生きるために助けを必要としている人たちに対し、もっと連帯し、寛大さを持つようにと呼びかけています。
 神は、民に救いのメッセージを与えるために、貧しい人を通して行動されることは、今日の福音書でも告げられています。

福音(マルコ12・38−44):この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた
 今日の福音書が紹介する二つの場面を話しましょう。その場面の持つ意味が私たちの注目をひきます。
第一の場面:
 イエスは、人々に、宗教的リーダーに警戒するように、すなわち、律法学者の行いは多くの人に被害を与える可能性があるから注意するようにと注意します。
彼らが虚栄心と自分達の要求を誇示しようと、特別な服を着て、他の人より目立ち、特別に挨拶されることを望み、人々を支配しようとするのを見て、イエスは我慢がお出来にならなかったのです。

 律法学者たちは、自分たちを印象付けるために長い祈りをするけれど、共同体作りもしないで、自分たちだけのことだけ考え、支えなければいけない、弱い人を利用しながら生きていました。

 しかし、福音書は、律法学者に向けた直接の非難の言葉は拾っていません。そうではなく、キリスト教共同体に向かってイエスがなさった注意のことばだけを書き残し、宗教的リーダーには、共同体に仕えなければならないことに気づくようにと願っているかに思えます。

第2の場面:
 イエスは弟子たちに、貧しいやもめの行為に目を向けさせます。イエスは会堂の賽銭箱の向いに座っています。多くの金持ちがたくさんの金を入れています。確かにその人たちが神殿を財政的には支えているのでしょう。
突然、一人の女性が近づき、二枚の銅貨を入れるのを見ました。貧しいやもめで、人生に苦労している人です。生きるための糧にも乏しい人、恐らく神殿で物乞いをして生きているのではないでしょうか。
心を動かされたイエスは、弟子たちを呼びました。そして、困っているにもかかわらず、生活に必要としている全てを入れたこの女性の行為を忘れないようにと言いました。

メッセージ
 律法学者たちは、よこしまな目的のために宗教を利用して生きている。ところが、この女性は、持っているわずかなものを手放し、神に全面的な信頼をおきます。彼女の行動に、本当の信仰、神に対する大きな信頼を見ることができます。

 この女性の名前も顔も判りません。私たちが知っていることは、イエスがこの女性の中にわたしたちが持つべき姿勢を見た、ということです。

 今日も、多くの素朴な信仰と寛大な心を持っている人たちが教会にはあり、それこそ、教会にある最も良いものです。彼らは司教や司祭のように本を書いたり、説教をしたりこそしませんが、生きたイエスの福音を私たちの間に生きて保たせているのです。私たちは彼らからこそ学ばなければなりません。

 奉仕の優れた手本である聖母に願いましょう。私たちが、この日曜日の朗読が思い起こさせた二人の女性のように、寛大で、貧しい精神を持つことを教えてくださいますように。