カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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キリストの聖体 マルコ 14・12-16, 22-26

2021.12.6 (日)
 今日、日本では、司牧的理由で他の多くの場所と同じように、キリストの聖体の祭日を聖霊降臨の2週後の日曜日にお祝いしています。元々のお祝いは、三位一体の日曜日の次の木曜日、あるいは復活の日曜日から60日目でした。今も世界の多くの場所で、伝統的な行列が行われています。それは路上で音楽を奏で、祈りながらご聖体を運ぶ行列です。

教会にとってのご聖体の意味
 ご聖体は、主イエスが最後の晩餐で制定された神秘です。私たちは毎年、聖木曜日の夜にこれを記念しています。
 ご聖体は主イエスが遺産として教会に残した宝です。教会は、毎日のミサ、聖体礼拝を献げながら。教会や修道会のチャペルなどでの礼拝、病気の方にご聖体を届けることを通して、それを大切に守ってきました。また、最期をむかえようとしている人に、その旅の糧としてご聖体を届けています。
 この宝は洗礼を受けた人たちに向けられていますが、その影響は教会の中だけに留まらず、世の命としてイエスによって与えられました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」(ヨハネ6・51)。どこにいても、どんな時もイエスは人と会い、神の命を届けようとします。ご聖体には宇宙的な価値があります。なぜなら、パンと葡萄酒がイエスの体と血に変化することは、創られたものの聖変化の始まりであるからなのです。
ですからキリストの聖体のお祝いの特徴は、行列をすることです。ここに深い意味があります。つまり、ご聖体を路上や広場に持っていくということは、天から降ったパンを私たちの日常生活に取り入れるという意味です。イエスが、私たちが歩くところを歩き、私たちが生きているところで生きるように。
 この世界で、私たちの存在そのものが神殿にならなければならないのです。神が現存する場所であるように。それによって、この世界は神の国になっていく。この日、キリスト教共同体は、ご聖体が自分たちにとって全てであることを宣言し、共同体にとって命そのもの、死に打ち勝つ愛の泉であると確信します。
ご聖体のイエスを拝領することによって、私たちの生活を変える愛が生まれ、永遠の命に向かっての歩みを支えます。
 アンリ・ドゥ・リュバックの有名なフレーズがあります。「ご聖体が教会をつくり、そして教会がご聖体をつくる。」これはヨハネ・パウロ2世によってカテケーシで取り上げられ、カトリック教会カテキズムにその表現があります。

キリストとの交わりの必要性
 聖変化したパンを食べる度に、キリストと交わりがあります。しかしこの交わりは、ただ心の中の親密さだけに留まるのではなく、苦しんでいる兄弟姉妹と交わることこそが大切です。ご聖体のキリストを拝領しながら、パンに飢えている幾万人の人を無視することはできないのです。パンデミックの前から何万人もの人たちが医療や教育を受けられず、飢えに苦しんでいました。それは戦争や気候変動によって、更にひどくなっています。壊れそうで危険な船や乗り物で、海や陸地を旅しなければならない多くの人たちがいます。
公共のメディアやマスコミが報道するニュースの中だけではなく、私たちが住んでいる町にも、もっと尊厳ある生き方、日本の社会の習慣や文化に適応しようと努力する移民の人たちが共存しています。隠れたところで、知られていない難民の方たちがいます。自分の母国では命が危険に晒されているので、母国を離れ、収容所で日本政府から認められる日を待っています。私たちは、今の政府がしようとしたことを知っています。難民にとって、もっと厳しい法律を作ろうとしたことを知っています。日本で長く生活しているにもかかわらず、彼らを強制送還するための法律です。思春期の子どもたちもいます。日本で生まれている子どもたちもいます。傷ついているキリストの体であるご聖体を拝領する私たちは、そのような状況に苦しんでいる人たちとの交わりを避けることはできません。

パンデミックの時のご聖体
 昨年の四旬節の始まりから、新型コロナウイルス感染の最初の波の訪れによって、政府は緊急事態宣言を発し、教会では公開ミサが中止になりました。このような状態は数ヶ月で収束するだろうと多くの人たちは考えました。毎年、冬に動物や人を襲うインフルエンザの経験からそのように予想したのです。ヨーロッパやアフリカを襲ったペストの歴史を、参考にした人たちもいます。しかし私たちはこの新型コロナウイルスの激しさを知りませんでした。人間を通して、このように広がるとは誰も考えていませんでした。
 ある意味においては、ミサや、共同体の全ての行事を中止することは諦めることができました。葬儀は例外です。しかし第一波の後、公開ミサが再開した時期もありましたが、私たちは日本の司教団の方針に従って来ました。つまり、日本政府によって緊急事態宣言が出された県では、その教区は人々の健康を守るためにその指示に従うということです。
私たちのさいたま教区は、この動きを注意深く見ていました。さいたま教区は感染者が多い地域にありましたので、教区の方針、ミサや他の秘蹟に関しての方針をその都度送って来ました。すべての主任司祭や共同体が、それを受け入れていることにとても感謝しています。
 このような状態が一年以上続いています。キリスト者として、信仰の生き方が試されています。特に、公開ミサが再開されたにもかかわらず、多くの小教区では、信徒が毎週ミサに参加することができません。ある教会ではミサに参加するために1ヶ月以上待たなければならないこともあります。各小教区は、ミサの参加に関して様々な形を考えてきました。
 毎月の私の方針はすでに19回出ています。基本的な方針に変更がない時は、主任司祭たちだけにそのことを伝える手紙を直接送りました。そのすべては、どのように公開ミサを行うかについて。私たちキリスト教共同体の命は、聖体信仰を土台としていることがわかります。数ヶ月間聖体拝領できない場合は、主任司祭を訪ねてご聖体をいただくことができます。ミサで司祭の言葉によって聖変化され、聖室に収められているパンにはキリストが現存します。

そして、イエスの母と共に、いつも共に
 イエスの母であるマリアは、「聖体に生かされた女性」である、と教皇ヨハネパウロ2世が回勅「教会にいのちを与える聖体」の中で定義されています。全てのキリスト者が、ご聖体の神秘の信仰を深めることができるように願いましょう。命のパンであるイエスと常に交わりを持ちながら、この世の証し人でありますように。特に、最後の審判の例え話でイエスが宣言されている、いつくしみの業を実践しながら(マタイ25・31−46)。