カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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復活徹夜祭 マルコ 16・1-7

2021.12.3 (土)
「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、
あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(マルコ16・6)

 今夜、この聖なる夜、福音書は、イエスの体を捜すために墓へ行った婦人たちに、白い衣を着た神からの使いがこのように言ったと語ります。イエスは過去の人物ではありません。イエスは今も生きておられ、生きた者として私たちと共に歩んでおられます。そして、人生の中で、生きた者として私たちと出会い、私たちに従うようにと呼びかけています。

 過越なしではイエスのことを何も知ることはできません
 もし福音書が、イエスが十字架につけられた場面で終わったとすれば、恐らくイエスのことは他のユダヤ人と同じように忘れられた可能性が高いのではないでしょうか。ローマ帝国により、残酷な形で多くの人が殺害されました。もしかしたら、フラウィウス・ヨセフスの書物の中に、イエスについての事がいくつか残されたかもしれません。あるいは、ユダヤ教のある書物に書かれて、それが全てだったかもしれないのです。
過越なしでは、聖金曜日もなかったでしょう。なぜなら、イエスの死を思い起こして、その意味を伝える共同体がなければ、このようなものは伝わっていなかったでしょう。このように過越は、正しく中心的なものです。
 では、過越って何ですか? 過越の物語は何について語っていますか?
答えは? 神がイエスを復活させたことについて?
はい、その通りです。それはどういう意味ですか? 疑いなく、それまで起きたことのない奇跡、壮観な奇跡です。しかし、これは死後の命の約束だけですか?
イエスが本当に神の子であることを神が私たちに示そうとしている、その証拠ですか?

 過越なしではキリスト教もありません。過越はその土台です
 はい、実際に起きたことです。そう聖パウロが証言しています(一コリント15・14)。そして、神の証人として、私たちは嘘つきです。なぜなら、私たちの生き方が、神がキリストを復活させられたことを証ししていないから。
ですから、キリスト教のメッセージの中で、イエスの復活への信仰が最も重要である、、とパウロが強調しているのです。キリスト教信仰は、イエスが死者の中から復活されたという真実の証しによって、成り立つのです。
 イエスが復活したから、新しいものが起きて、この世と人間の状況が変わりました。イエスにおいて神は本当に現れた。ですから、新訳聖書が復活について語っている証しに注意深く耳を傾ける必要があるのです。

そこで何が起きたのか:福音史家が語った証し
 復活されたイエスに出会った証人にとって、その体験を語ることは簡単な作業ではありませんでした。彼らにとって、特別に新しい現象でした。自分たちの経験の地平線を遥かに超えていたのですから。
 マルコによると、弟子たちが変容の山から降りている時、人の子が死者の中から復活するであろうというイエスの言葉について、彼らは心配しながら、死者の中から復活するとはどういう意味なのか、互いに論じ合っていました(マルコ9・9)。
このことはどういう意味なのでしょうか。弟子たちも、解りませんでした。現実との出会いでそれを学ばなければなりませんでした。

本当の復活:二度死ぬことはない
 もしイエスの復活が、死んだ人が生き返ったという単なる奇跡であったとすれば。医学的技術によって、死んでいた人に再び命が戻ったのであれば、世界と私たちの存在に何も変わりがなかったでしょう。しかし、イエスの復活は、遺体が再び命を取り戻したという奇跡ではありません。ナインの若者(ルカ7・11−1)、ヤイロの娘(マルコ5・22−24)、あるいはラザロ(ヨハネ11・1−44)の死とは違うのです。彼らは一時的に生き返ったものの、最終的に再び死にました。

全く新しい命、人類にとって新しい将来
 新約聖書の表現によると、人の子の復活は疑いなく完全に違うものでした。イエスの復活は死の鎖を断ち切って、全く新しいタイプの命へ行くこと。この命は時の流れと死に縛られていない命、更にその向こうにある命、人間の新しい側面を生じさせた命です。すなわち、イエスの復活によって、将来に向かって、新たな人間の可能性が開かれたのです。パウロが言っている通りです。「もしキリストが復活したのであれば、私たちも復活するであろう。」(一コリント15・16)。

イエスの復活を理解するために弟子たちには時間が必要でした
 弟子たちがイエスの復活を真に理解するには彼ら自身の心の中でのプロセスがありました。イエスの復活はラザロや他の人がイエスによって“甦えらされた”こととは違う、イエスはこの世の普通の命に戻ったということではない、十字架の死を通って新しい命に入られたと彼らが確信していました。復活されたイエスは神の偉大さの中から彼らに現れました。これは弟子たちにとって、完全に意外なことではなかったけれども、彼らには、それを理解するために時間が必要でした。ユダヤ信仰では、世の終わりの死者の復活について知っていました。しかし、イエスの復活は、弟子たちにとっても思いがけないものであって、最初は理解できなかったのでした。しかし、弟子たちは、40日間にわたって復活されたイエスに出会い、復活は、十字架の死と同様に本当であると確認できたのでした。疑うことから始まり、ためらいや驚きの後、そのままに受け止めるようになったのでした。
 その結果、人々に宣教するまでの確信が生まれたのです。弟子たちの証しが確信に満ち、説得力があったので、イエスの運動がどんどん成長して、世界に広がっていったのです。

復活されたキリストの証し人として生きましょう
 キリストの愛への信仰をいただいている私たちは、弟子たちの証しを信じています。その結果、復活されたイエスの現存を、私たちの生活の中で事実として体験します。この信仰によって、イエスが私たちの生活の中や人類の歴史の中にいるということを、身をもって理解できます。福音書に語られている、彼らの言葉と証しが今も新たな弟子たちを生み出しています。
 しかし、あの当時と同じように、この世は悪の力に支配され、人間の心に権力、金、快楽が出現してきています。現代はイエスの弟子であり続けるが困難です。しかし、イエスの福音の魅力はとても強く、それを拒否することはできません。神は聖霊によってすべての民とすべての世代の人々を招き続けます。新型コロナウイルスがグローバル化している現代社会で、この世の歴史の中で復活されたイエスの証人となれますように。

 復活節の間、復活されたイエスの印を発見するように努めましょう。自然が春を迎えて、青々としている中、医師、看護師と医療従事者の証し、特に新型コロナウイルスに感染した人の世話、あるいは亡くなった人の埋葬に関わっている人たちの中にイエスの印を見つけましょう。