カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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待降節第1主日 ルカ 21・25-28,34-36

2021.12.28 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 神の恵みによって、この日曜日は新しい典礼暦年を迎えました。待降節という、主イエスの誕生への準備期間です。

 この待降節第一主日は、降誕祭に導く4週間の歩みの始まりです。「待降節(アドヴェント)」の元々の意味は訪れ、あるいは現存です。古代の世界では、ある地域への王様や皇帝の訪問を意味していました。キリスト教用語では「神の訪れ」を表わすとともに、この世と、宇宙における神の現存、人類の歴史全体を包む無限の現存をも表しています。

主の3つの訪れ
 教会の教父たちは、神の訪れを主に二つの訪れ、すなわち、受肉(降誕祭)と歴史の終わりの栄光に包まれた主の再来に焦点を当てます。待降節はこの二つの極の間に流れているものです。はじめの日々は、主の最後の訪れが示されています。降誕祭が近づくにつれ、ベツレヘムの出来事の記憶が強調されます。私たちの間にイエスが誕生することを強調します。

 この二つの訪れ、ベツレヘムと再臨の、二つの見える形の訪れの間に三つ目のものがあります。真ん中に隠れているそれは信仰者の心の中での出来事、そして最初と最後の訪れを繋ぐ橋のようなものです。私たちは、この訪れを、近年よく現れる、自然現象も含めて、歴史の中で起きている出来事に対する特別な姿勢で生きていかなければなりません。

第一朗読(エレミヤ33:14−16)
 エレミヤ書は、紀元前587年のエルサレムの破壊の直後に書かれたとされています。暗く荒れた状態に危機の自覚を持ち始めていた民に対して、エレミヤは預言的な言葉を発信しています。神は見捨てられない、と伝えるためです。捕虜になった人たちが戻れるようにさせ、破壊された街が再建され、畑の作物は実を付け、家畜は餌を食むことができるように、その時、主は、正しい王を起こし、イスラエルを追放に導くのではなく、イスラエルの民を立て直す王を立てられるのです。

 続いて、イエスのメッセージを理解するために、歴史の中で、「今」を映している福音書を深めていきたいと思います。

福音書(ルカ21:25−28、34−36):
 ユダヤの民の変化
今日の朗読箇所は、私たちにとっては、少し難解かもしれません。ルカは、ローマ軍によって、エルサレムが包囲されていることについて語り(21:20−23)、最後の日々を生きているエルサレムの街の状況を、神の特別な呼びかけと比較しています。イスラエルにいるユダヤの民が存続するためには、新たな道を探さなければならないことを告げています。
 エルサレムの神殿は、神の家と考えられたので破壊されないはずでしたが、救われません。ローマ人が全てを崩し、大勢のユダヤ人たちが城壁の中に逃げ込みましたが、彼らは容赦なく殺害されました。生き残った人たちは奴隷として連れて行かれました。彼らにとって世の終わり、今まで築いてきた世界の終わりでした。そして、国として生き残るために、輝きを取り戻すためには、他の方法を探さなければなりません。それは、特別な民として、神から選ばれたものとして、神に支えられることです。
 ユダヤの民が、国の大惨事の中でも生き残ったことを私たちは知っています。長い世紀に渡って、他の国々の前での屈辱的な形でした。しかし、彼らは、神の言葉「律法(Torá聖書)」に支えられて、再び自分の土地を取り戻す時まで、一つの国となるまで、他の多くの国々に広がって存在し続けたのです。
ユダヤ人にとって、そして、キリスト者にとっても、この歴史的な記憶は現代にも通じます。特に、かつて、エルサレムを訪ねて、祈るために嘆きの壁を訪問した時に、私はそれを強く感じました。

イエスのメッセージを理解するため
 今日の朗読箇所にあるイエスのスピーチは、終末論的で、あの当時の文化に沿ったものです。しかし、終末論を、大惨事としてではなく、神の民に対する啓示、あるいは特別な呼びかけとして話されています。
 イエスはそのスピーチの中で、太陽、月と星、海が狂ってしまうという現象を描いています。人々はパニックになります。人々が新しい状況に向き合わなければならないという自覚を持つために、それらの印は自然の現象として現れるでしょう、と話されます。

自然、大惨事、それらに対する私たちのリアクション
 残念ながら、このイエスの言葉を文字通りに取り、自分たちはとても強い宗教心を持っていると思いながら、街で、路上で、世の終わりがすぐ来ると宣言する人たちは、以前もありましたし、この先にもあることでしょう。世界の全ての人が回心しなければならないなら宇宙に大惨事が差し迫っている、と彼らは宣言しています。人間は、神が望んでいる生き方をしていないので、回心を急ぐ必要があると言っています。
毎年、9月の終わり頃からクリスマスまで、東京の大きな駅の出口や大きな街の交差点、大勢の人の往来があるところで、メガフォンを持って、あるいは録音したメッセージをスピーカーで流し、大惨事が差し迫っているとのメッセージを投げかけています。それによって人を怖がらせ、回心を呼びかけるのです。みんなが回心しなければ不幸が訪れ、築いたもの、東京の街そのものが破壊される、と叫びます。
しかし、彼らが毎年宣言している世の終わりは未だ訪れていません。ですから、今日の福音書を通して、イエスが言われることを、もっと深く理解することが大切なのです。

今年の待降節を通しての私たちへの呼びかけ
 この待降節に、私たちの歴史の中での神の現存について考察するよう、教会は望んでいます。私たちが無視することが出来ない、現代的な一つのテーマです。キリスト者は、確かに、私たちが生きているこの社会の変化に参加する者が年々増えているとはいうものの、祈りと行動を持って、さらにもっと関わらなければならないことを示しています。

 特に、教皇フランシスコは、近年、この地球は、神が創られた私たち人類の共通の家であること、宗教の違い、国の違いを超えて、一つの家族であることを意識するようにと願うととともに、人類だけでなく、すべての生きものの家であるこの地球、この自然を守るようにと願っています。私たちは、社会的、宇宙的環境をより良いものにする使命を受けているのです。

 この待降節で、私たちの歴史の中での神の現存を改めて意識し、再発見しなければなりません。