カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2021年  次の年→ 

年間第12主日 マルコ 4・35-41

2021.12.20 (日)
兄弟姉妹のみなさん

 今日の福音書の朗読(マルコ4・35-41)では、復活されたイエスが弟子たちとともに舟に乗り、ガリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとされたときの出来事に耳を傾けました。

 イエスと弟子たちが乗っている舟は、暑い日の夕方にガリラヤ湖で急に起きる、激しい嵐に巻きこまれています。今にもお船が沈み、溺れるのではと怖れる弟子たちを尻目に、イエスは静かに眠っておられたというのです。弟子たちに起こされたイエスが立ち上がって、風を𠮟り、湖に、「黙れ、沈まれ」と言われると、風は止み、凪になったのを見て、弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたであろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言い合ったという話です。
 ここに描かれた弟子たちは、復活されたイエスに出会って、神の子イエスを心から信じるようになったはずの弟子たちでしょうから、私たちには驚きではないでしょうか。
しかし、考えてみますと、マルコ福音書が書かれたころ、初代の教会共同体の人たちはさまざまな困難に直面していたのではないでしょうか。共同体は内外、両面からの脅しに包囲されていました。迫害の中で絶望し、希望がなく、夢も魅了するものもなくなっている時でした。ですから、マルコがこのようなエピソードを記しているのは、困難に直面していた当時の共同体のキリスト教信仰を目覚めさせるためだったと考えられないこともありません。

 翻って、現代社会で生きる私たちは、イエスに従うことによって、初代のキリスト者のように激しい迫害にさらされてはいません。しかし、私たちの人生は様々な形で脅かされ、神に対する信仰が揺れ動かされます。不正、暴力、汚職、消費主義、相対主義、官能主義などの波に翻弄されそうになり、そのような誘惑に負けてしまいそうになることがあります。
 悲観的になり、全ての努力を諦めることがあります。自分の舟を歴史の流れに任せてしまうかもしれません。環境が私たちを溺れさせ、私たちは負け、方向感覚を失った状態になり、困惑に飲み込まれてしまいます。

 このように考えますと、イエスがガリラヤ湖上で弟子たちに言われた「なぜ、怖がるのか、まだ信じないのか。」という言葉は、現代社会の荒波の中を必死に生きようとしている私たちへの、時を超えての心強い励ましのメッセージに思えてきます。

 このように福音を受け止めるなら、どのように主がヨブに答えられたかを知ることはとても興味深いことです(ヨブ38・1、8-11)。ヨブは難しい試練の中に置かれています。神は嵐の中から答えます。旧約聖書ではこのような神の出現は、ごく普通で、人間のために神ができることを表しています。人間を押しつぶさないように、押し寄せてきている波を留めること、そして溺れさせないようにすることが、神にはできます。
 ヨブは人生に訪れる試練に、長い間、耐え忍ぶ人のシンボルです。この試練は、ある時はとても厳しく、更に長引き、ヨブはあらゆる方向から包囲されているように感じます。全ての人が自分に反対し、自分の身体さえ衰えて、誰も彼に近づくことはできない。しかし神は、嵐の中に現れてヨブを支えます。自分の命は神によるもの。ヨブは神のいつくしみを疑ったことはありません。希望が全く無くても、信じ続けている。なぜなら彼の状況は悲惨でした。ヨブ自身が私たちに言っています:私たちが神に信頼をおいていれば、人生の困難が私たちを負かすことは絶対にできない。特に、生まれた国を離れて日本に来られた方々は、人生のある時期にヨブと同じ状況を体験したことがあるのではないでしょうか。あるいは、嵐の海にいた弟子たちのような時を過ごされたのではないでしょうか。

 そして、最後に、今日のパウロの手紙(②コリント5・14-17)に耳を傾けると、新しい人類のことを書いています。私たちは、キリストの死において全面的な命を取り戻すのであり、キリストはそのために死んでくださったのだとパウロは言っています。キリストの愛の大きさによって、私たちは死と罪の奴隷状態から救われました。新しい命に与りました。古いものは、イエスの血と復活によって乗り越えられたのです。
 ですから、「だから、キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。」とのことばに対して、私たちは心の底からアーメンとの思いが湧き、キリストが人生の困難な時にも私たちを支えてくれる唯一の力となるのです。