カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第14主日 マルコ 6・1-6

2021.12.4 (日)
今日も、神の言葉は、私たちがキリスト者として、今の時を生きるための光となります。
読まれた聖書には、三人の偉大な預言者、エゼキエル、パウロ、そしてイエスについて書かれていました。すなわち、イスラエルがバビロンに追放された時のエゼキエル(紀元前6世紀)。特別な苦しみを持っている、異邦人の使徒となったパウロ、そして、発する言葉でナザレの人々を驚かせるイエスの三人です。まずエゼキエルについて触れます。それによって今日の福音をより深く理解することができるようになります。同じようにコリントの信徒に向けられたパウロの言葉を味わいます。この日曜日のみ言葉の黙想によって、私たちの信仰生活が個人としても、共同体としても一層強められますように。

わたしに逆らった反逆の民に遣わす(エゼキエル2・2−5)
エゼキエルは、バビロンへ連れて行かれたイスラエル人のために、神の預言者として選ばれました。それは簡単な勤めではありませんでした。なぜなら彼はユダの地で生まれ育っていたからです。紀元前597年に国は滅び、一万人の捕虜と一緒にバビロンへ連れて行かれた時(列王記下24・10−14)、エゼキエルは神の神殿で祭司になるための準備をしていました。5年後、バビロンで捕虜として生きていた時、エゼキエルは神の現存と力の素晴らしさを示す、光り輝く啓示を見ることになりました(エゼキエル1・4)。この啓示によって神はエゼキエルを預言者として立てられました。彼は反逆者と向き合わなければならないことを知りながら、預言者としてメッセージを発信します。多くの苦しみが待ち構えていたにもかかわらず、彼は忠実に神の呼びかけに応えることを選び、22年間、反逆の民に神の言葉を伝えました。預言者に対する民の反応は憎しみでいっぱいでした。それによって、エゼキエルは、神から委ねられた使命への忠実さを大いに試されたのでした。

わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ
(�Aコリント12・7b−10)
パウロは、自らが持つ「とげ」について話します。それが具体的に何かは解りませんが、全身に大きな痛みと苦しみをもたらしています。パウロは主に向かってそれを取り除いて下さるように願いましたが、主はパウロに向かってお答えになります。「わたしの恵みは、あなたに十分である、わたしの力はあなたの弱さの中で十分に発揮されるのだ」と。パウロはこの言葉を受けて、どんな辛いことであっても、そのときにこそ、主がともにいてくださるのだと確信するようになったのでした。パウロの深い悩みの一つは、主から頂いた使命、すなわち、異邦人の使徒として働き続けることは、自分の力だけでは出来ないと強く感じていることでした。その一つの原因は、あるキリスト者のグループがパウロは偽者の使徒であるという噂を広げ、パウロの教えを疑う人が増えていたことでした。福音書の例え話にもあるように、反対者たちはパウロが種を蒔いた畑に毒麦を蒔いたりして、彼の威信を損なうようなことをしましたが、パウロは主からいただいたみことばに支えられ、あきらめないで異邦人のために福音宣教を続けたのでした。

ご自分の故郷ナザレで預言者として受け入れられないイエス(マルコ6・1−6)
エゼキエルとパウロの、預言者としての使命を黙想した後で、イエスに起きたことについて考えると、その持つ意味をもっとよく理解できます。神の国の宣教を自分の故郷で始めようとした時に、イエスに起きたことです。ガリラヤの農民や素朴な人々は、イエスが言葉や業によって人を癒すのを目にし、イエスの中に神の霊によって動かされている預言者を見ていたでしょうが、多くの人たちはそうではなかったというのです。イエスがご自分の故郷であるナザレで蔑ろにされたことは、三人の福音記者たちがすべてこの出来事を細かく拾っていることから見ても、初代のキリスト者たちにとってはしばしば話題とし、そのわけを考え続けていたのだろうと考えられます。

今日、マルコは、その出来事を次のように語ってくれています。
土曜日になったので、イエスは、小さなシナゴーグに入られました。そこはユダヤ人たちが祈り、神の御言葉を聞いてコメントする集会の場でした。イエスは人々に教え始められます。その中には、当然、近所の人々や親戚の人たちも混じっています。子どもの頃から知っているイエスは近所の人の一人にすぎないのです。ですから、イエスの口から出てくる神の国についての驚くべきメッセージはどこから学んだのか。人を癒す力は誰からもらったのか、人々が訝るのは至極当然なことです。しかし、子どもの時から知っているイエスの思いがけない姿をありのままに受け入れられないナザレの人たちは、イエスの中に、救いと癒しの神を見ること拒んだのです。

私たちも例外ではありません。固定観念に禍いされて、神からの発信をそのままに真っすぐ受け取ることができないでいることは決して稀ではないのではないでしょうか。みことばをいつも曇らぬ心で受け止め、主イエスに従って生きることができるよう恵みを願いましょう。