カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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復活節第5主日 ヨハネ 15・1-8

2021.12.2 (日)
兄弟姉妹の皆さん
 復活節第5主日の典礼では、ヨハネによる福音書を通して、最後の晩餐の席で、「ぶどうの枝が木につながっているように、イエスにつながっているように」と弟子たちに話されているイエス様の姿が描かれています。
 キリスト者の信仰生活におけるイエスと私たちの交わりの神秘はこの「ブドウの木」のたとえ(ヨハネ15・5)に見事に表されています。ですから、今日の説教はこのたとえばなしを中心にして黙想したいと思います。幸い、ブドウの木は私たちのすぐ身近にありますから、皆さんにとってもこのたとえ話はとても親しみやすく感じられると思います。

旧約聖書における「ぶどう」と「いちじく」
 旧約聖書では、ぶどうの木(ぶどうの実)あるいはいちじくの木(いちじくの実)は神の民のシンボルです。ホセア預言書には、「荒野でぶどうを見いだすように わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように お前たちの先祖をわたしは見た。」(9・10)と記され、ミカ書では、「悲しいかな わたしは夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく わたしの好む初なりのいちじくもない。」(7・1)と、地上から熱心な人と正しい人がいなくなり、全ての人が悪を行っていることを嘆く言葉が記されています。挙げればきりがありません((詩篇80・9、イザヤ5・1−7、エレミヤ2・21、エゼキエル19・10−12)。

ぶどうの木に枝がつながっているように、イエスにつながっている
 歴史の中で神に不忠実であったあの民を、イエスは新しい民、新しい人間的共同体、真の神の民へと創り変えられましたが、それはイエスにつながっているからなのです。この実りは、ひとえに、イエスが注がれた霊の働きによるものでした。
まことのブドウの木(まことの光、天からのまことのパン)。旧約の神、イエスが父と呼ぶ神が、このブドウの木を植えて守るのです。それは、まことの光(ヨハネ1・9)、天からのまことのパン(ヨハネ6・32)でもあります。
実を結ばない枝は、共同体に属してはいるものの、霊には応えていません。パンを食べるけれど、イエスを身にまとわない、イエスの教えに従って行動できないでいるのです。  
 枝自身には命がありません。ですから、自分自身の力では実を結ぶことができません。樹液、すなわち、イエスが伝えた霊が必要なのです。この関係を断ち切るということは、命の泉から切断されること、実りのないものになっていくことです。
イエスにつながっていなければ、弟子はキリスト者であり続けることはできず、イエスとその共同体から離れる人は、実を結ばない枝のように切られてしまい、枯れて、すなわち、命のないものとなって火に投げ込まれることになります。

 ヨハネは手紙の中で、イエスにつながっている具体的な形について、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネ一3・23)と語っています。愛こそがまことの命に導く唯一のものなのです。

ご聖体を通して、そして、母であるマリアの手につながり、イエスに結ばれます
 霊的な豊かさが育まれる秘訣は、ご聖体を受けることを通して神と一致を願うことです。
 そして、ぶどうの木に結ばれている枝のように、キリストに結ばれているもう一つの確かな道の一つは、イエスの母であるマリアのとりなしを求めることです。
もうすぐ、5月13日、ファティマの聖母の祝日がやってきます。百年ほど前(1917年)、ポルトガルの小さな町ファティマに、羊飼いである三人の牧童たち、ルシア、フランシスコ、ジャシンタにお姿を現されたマリア様を記念し、祈ります。ルルド(1858年)の聖母と同じように、祈りと回心への強い勧めが、そこに託されたメッセージでした。世界的な大戦争や様々な破壊に遭った20世紀、教会に対する迫害が広く起こったときだったからでしょう。

 マリア様に信頼をもって、5月に向かいましょう。常にとりなしてくださっていることに感謝し、教会と人類の道のりを守ってくださるように願いながら、毎日のロザリオを献げましょう。

 この黙想を、沈黙をもって終わります。
 心の中でアヴェ・マリアを唱えましょう。