カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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聖家族 ルカ 2・41-52

2021.12.26 (日)
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。(ルカ2:16)

兄弟姉妹のみなさん、
 今日は聖家族の日曜日をお祝いしています。
 降誕祭の場面を思い起こしながら、ご自分を、天使の知らせを受け、急いで行って「マリアヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(ルカ2:16)、ベツレヘムの羊飼いたちに置き換えてください。

 今年のクリスマスには、夜半のミサの説教に加えて、もう一つの黙想を書きました。馬小屋の2頭の動物、「牛とロバ」の目を借りながら、飼い葉桶に寝かせてある、私たちと共にいる神インマヌエルをどのように発見するか、についてです。この黙想は、教皇ベネディクト16世が教皇になられる前に書かれたものです。とても美しい黙想で人の心を動かす深いものです。

 今日ナザレの聖家族のお祝いにあたって、まず、ルカ福音史家だけが書いている出来事を黙想します。イエスが12歳になった時、両親はエルサレムの神殿でイエスを見失い、そして見つけます。
次に第一朗読に書かれている、少年サムエルが両親によって神殿で神に献げられたことについてコメントします。全ての親が自分の子どもを、特に生まれたばかりの時に、神に献げることを忘れないように。日本では子どもが3.5.7歳の時に祝福をする習慣があります(七五三の祝い)。

福音についてのコメント(ルカ2:41−52)
 ルカ福音史家が、神殿で両親がイエスを見失った出来事を書いたのは、多分その50年後ではないかと推定されています。12歳とは、子どもたちが自立し始める時でもあります。ルカにとって、このエルサレムへ上る最初の旅は、過越の上りの前兆です。ですから、このような出来事は、主の死と復活の光に照らして読まなければなりません。

 ルカは、イエスの家族が宗教的な務めを果たしている様子を紹介しています(41−42節)。
少年イエスは、自分からエルサレムの神殿に残り、両親を混乱させます。3日の後、発見されました。この3日という数字は、シンボル的な意味があります。次に、母親と思春期に入っている息子との難しい会話があります。噛み合わない会話のように響きます。「なぜこんなことをしてくれたのです。」という一つの注意の言葉から始まります。この質問は親としての苦悩からのものです(48節参照)。イエスは二人を驚かせます。「どうしてわたしを捜したのですか。」(49節)。私たちを驚かせるのは、そこに明らかな理由があるようだからです。
 しかし、二つ目の問いかけは、もっと先を指しています。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」マリアとヨセフはこの言葉を、すぐには理解できませんでした。彼らはそれから学ぶことになりました(50節)。

ルカにとってキリストの知恵は、若い時から父である神に自分を献げることでした。この奉献が、イエスを何処へ連れて行くのかを知っていた、ということでもありません。しかし、その実現のために、他の全てのものに意味があるということについて、両親は、その知恵をまだ持っていませんでした。マリアはそれを予感したようです。しかし、彼らは自分の息子の召命が、家族を超えているということを尊重します。
 これは私たち、それぞれの家族にとても大切なことです。子どもの教育は、それぞれの召命の誠実な尊重の姿勢から始まります。そうでなければ、理解と愛が生まれることは不可能です。信仰と信頼はいつも歩みを助けます。信仰者として、マリアとヨセフは困惑、苦悩を味わいながらも、喜びの中で信仰を成熟させていくのです。徐々に物事が明らかになっていきます。

 ルカは、マリアはこれらの全てのことを心に納めていた(51節)と指摘しています。マリアの黙想は、イエスの使命についての理解を深めさせます。イエスの身近にいるから、ということで神の計画を理解するプロセスの難しい時が取り除かれるのではありません。マリアはイエスの最初の弟子のようであり、イエスの福音を最初に受けたのです。
キリスト教の観点から、家族は愛の共同体として、キリスト教信仰を伝えるというかけがえのない役割を果たしています。このように、愛の共同体の一員となる人は、他の人たちに誠実さと信頼を持って開かれることができます。

第一朗読(サムエル記上1:21−22、24−28):サムエルは子どもの時から神に仕えている
 今日の第一朗読では、預言者サムエルの誕生の出来事を聞きました。将来イスラエルの民の奉仕者になるため、両親が息子をどのように神に献げたか。彼は民が正義と平和の道を歩めるよう、導きました。知恵あるサムエルの導きのおかげで、イスラエルは平和と繁栄の時を歩むことになります。

 今日読まれた箇所では、両親であるエルカナとその妻ハンナが、生まれたばかりの子に名を付け、乳離れを待って、神に献げるために自分たちの村の神殿に連れて行ったことが書かれています。そこで、エリという祭司に出会います。エリは母親の望みを聞き、幼い少年サムエルを将来の跡継ぎになるように自分の弟子として受け入れました。幼いサムエルは神殿にエリと共にとどまり、彼の霊的同伴によって幼い頃から民に仕えることを学びました。

 息子や娘の教育とその使命に協力する時、サムエルの両親が私たちのお手本になるのではないでしょうか。世間には、神について、またイエスの福音や教会に対しても、関心がないと思われている人たちがいます。しかし、そのような人の中にも、自分の息子や娘が結婚生活ではなく、司祭や修道者への召命を選んだことを受け入れる親がいます。

質問:
自分自身に問いかけましょう。
イエスは神である父の愛を誰から学んだのでしょうか。
子として、父に関しての知恵を持っていました。人間的な文化、祈りや神殿について、またイスラエルの組織に対する愛情を両親から学びました。しかし、神殿に留まるイエスの決意は、御父との親密な関係の実りであると考えられます。それと同時に、マリアとヨセフから受けた教育もあります。

 私たちがいただいている信仰の賜物を感謝しながら終わりましょう。そして、パンデミックのうちに流れたこの一年と別れ、新しい年を大きな希望で待ちましょう。