カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第17主日 ヨハネ 6・1-15

2021.12.25 (日)
兄弟姉妹の皆さん、
この主日からヨハネ福音書の6章が読まれ、8月22日の第21主日に終わります。教会は、この箇所を注意深く黙想するよう勧めています。それはこの章がいつの時代の人類にも関わる深い問題、世界のすべての人が飢えて死ぬことのないように、必要な糧を得なければならないということに触れているからです。私たちは、このパンと魚の増加の場面を暗記するほどよく知っています。イエスが5千人の人々に食べ物を与えた場面です。

 しかし、福音の理解を深める前に、第一朗読からのメッセージをまとめたいと思います。ヨハネ福音書に似ている出来事が描かれています。そして、エフェソの信徒への手紙についても触れていきましょう。今日の神の言葉のメッセージは、この世を司っているメカニズムを、新型コロナウイルス感染拡大の中、金曜日に始まった東京オリンピックについても、理解するための助けになると思います。

第1朗読 列王記下 4:42−44
預言者エリシャは百人のためにパンを増加した
 列王記下の4章は、エリアの後継者である預言者エリシャの奇跡について語っています。預言者エリシャは北の国で活動しました。エリシャは奇跡を行う預言者です。奇跡によって神の民を導こうとしました。

 今日の典礼のために教会が選んだこの短い箇所に、一人の僕がエリシャのところに初物のパン、大麦パン20個と穀物の袋を持ってきた、と書かれています。エリシャはそれを飢えていた百人の人々に配るように命令しました。僕は、「それは不可能です。それはわずかな人にしか届きません、すぐなくなります」と答えます。しかし預言者の命令に従って配り始めると、すべての人々が満たされるまで食べ、その上残りが出ました。
預言者エリシャがパンを増やした奇跡は、イエスが5千人の人々に食べさせたことを思い起こさせます。しかし、本当のメッセージは、パンが奇跡的に増えたことではなく、他の人々も食べられるように、持っている物を分かち合ったことにあります。これが飢えている人と貧しい人、様々なものの不足で苦しんでいることに対する解決方法であることを教えてくれています。

第2朗読 エフェソ 4:1−6
共同体に一致がありますように
 エフェソの共同体では、内部の人同士の関係に困難があったようです。牢屋に入れられていたパウロは、彼らに一致を保つ努力をするように願っています。皆が洗礼を受けていて、皆が神の子であり、お互いに兄弟姉妹であるからです。文化、経済などの状況に違いはあります。しかし、主である神を父として認めると、私たち皆が御子であるイエスにおいて兄弟姉妹になれます。

 イエスの弟子になった後には、少しも欠点のない生活をしなければならないのです。特に、お互いの違いを尊重し、許し合うことが重要です。パウロは、その一致を取り戻さなければならないと言いました。なぜなら、それが聖霊のイエスの現存の印だからです。違いの中での交わりなしでは、キリスト教共同体としての証しはできず、恥でさえあります。
 イエスが望んでいる一致を得るため、次のような姿勢を育てるように勧めています。自分自身より他の人を尊敬すること。神様が他の人に与えられた賜物を評価すること。そして、考えと感情が一つであるように。そのためには、すべての野心から離れることが必要です。一致が脅かされているところでは、「謙遜と謙虚さ」が大きな役割を果たします。柔和、温和なこと、優しさで隣人に接することが大切です。このような行動は、人を争いから遠ざけます。他の人より自分が優位であるという感情をもつことがなくなります。何より、忍耐が愛の特徴であり、共同体を平和のうちに一致させ、それを保たせるようにします。パウロは断言します、一致があるところには神がいる、と。その共同体こそ、本当のキリスト教共同体と言え、もしそうでなければ、キリスト教共同体とは言えません。

福音朗読 ヨハネ 6:1−15
イエスは五つのパンと二匹の魚で5千人の人に食べさせた
 福音書のメッセージを、更に立ち止まって見ていきましょう。より深く味わうことができます。
 イエスの話を耳にして、多くの人たちが、病気を癒していただくために遠くからも来ていたかもしれません。多分、それぞれ、何か食べ物を持ってきていたでしょう。日本的に言うなら、簡単なお弁当とか、おにぎりを2つ3つとか持っていたかもしれません。興味深いのは、そこに集まっていた人たちすべてに食べさせることについて、弟子任せにせず、イエスご自身が主導権を取っていることです。イエスは、フィリポに、この群衆に食べさせるにはどこでパンを買えば良いか尋ねます。すると、フィリポは、200デナリオンあっても十分でない、と答えました。一方、アンデレは、大麦パン五つと二匹の魚を持っている少年を見つけた、と言います。しかし、それでは、長い時間彼らと一緒に過ごし、飢えている多くの人たちすべてには行き渡りません。預言者エリシャの僕も、同じような質問をしたことを思い出します。

弟子たち、そして私たちに対するメッセージ
 この場面には、皆さんも私も親しみをもっています。イエスがわずかなパンで、5千人の人に食べさせる奇跡をなさったことが描かれています。忘れがちなのは、少年が持っていたわずかな物を分かち合ったという大切なメッセージです。少年も自分が持っている物が十分でないと知っています。2〜3人分しかありません。しかし、イエスの手に渡せば、それが増えるという確信をもっていました。その時の彼の驚きは大きかったでしょう。皆が食べて満腹した後、残ったもので12の籠がいっぱいになったのですから。

 ヨハネ福音史家がこの6章を通して記していることはとても美しい。この世界には、いつも飢えている人がいます。師であるイエスは、どんなにお金があっても、世界中の飢えている人に食べさせるには十分でないということ、飢餓の問題は食べ物を買うことで解決することはない、その解決は、私たちが持っているのもがあれば、それを分かち合うことから生まれるのだと教えられたのでした。互いに分かち合うことが本当の奇跡なのです。それが神の業の一番大きな印です。

 パンの増加の出来事を読む度に、そのことを思い起こしましょう。先の見えないパンデミックの危機の中、特に、食べ物、着る物、教育、健康、住まいなどのニーズで苦しんでいる多くの人たちとの連帯、互いの助け合いを忘れないようにしましょう。初代のキリスト者が行ったように、私たちも無償で分かち合うことを恐れないように、特に必要としている人たちへ、パンを分かち合うという行為が、人類の中に復活されたイエスの命と働きを継続させ、その命を保たせるということを忘れないようにしましょう。
あの少年のように、私たちも、イエスの協力者になりましょう。私たちは、誰も神ではないけれど、神の国の奉仕者にはなれます。教皇フランシスコのメッセージにいつもあるように、この寛大さによって福音を生きる喜びを体験することができます。