カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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王であるキリスト ヨハネ 18・33-37 (年間第34週)

2021.12.21 (日)
今日は典礼暦年の最後の日曜日であり、王であるキリストのお祝いをしています。最初の二つの朗読はダニエル書の7:13−14と、黙示録1:5−8で、ともに短い箇所です。しかし、そのシンボル的なイメージを通して、人類の歴史に受肉した神としてのイエス・キリストの現存、そして宇宙全体との関わりを強調している重要な箇所です。今日のお祝いは、人類にある一つの、最も大きな課題と関係しています。もっと良い未来に向けて、国々がどのように歩むべきかという課題です。国々を統治する責任を負っている政治家が持つべき基本的な姿勢をイエスが示している、と教会は確信しています。

 しかし、第一に、多くの人がイメージしている、王としてのイエスをお祝いしているのではありません。即ち、私たちが王という時、一人の王、あるいは女王が統治している国のことを想像します。しかし、それは当たっていません。イエスは多くの国の大統領のように、政治的、監理的な王ではないことを明確にしなければなりません。
現代に君主制の国はわずかしか残っていません。そして、現在いる王や王たちは、前世紀に持っていたような権力を持ってはいません。他方、国々の政治システムに大きな進歩があるにもかかわらず、まるで君主制のような全体主義国家が次々に現れ、独裁的指導者に支配されています。国民のための善を考えず、人の苦しみに気に留めず、自分のためのプロジェクトを優先する独裁者です。多くの場所では、その独裁的な政府を倒すために武装した革命が行われているのです。

 カトリック教会は、信者に特定の政党に属するようにとは勧めていません。それはそれぞれの人の意思によるものです。しかし、イエスの弟子として、平和な世界を築くために、政治に参加し、協力するように呼ばれています。イエスの福音の価値観によって、不正に束縛されている世界を変えるために招かれています。この課題について、そして、この世界を変える努めについて、立ち止まって今日の福音を考察していきましょう。

福音(ヨハネ18:33b−37):ピラトはユダヤ人の王であることでイエスを罪に定める
 イエスご自身がその人生の中で、ご自分に対する間違った捉え方を否定してきました。政治的メシア、軍隊のリーダー、地主でもありませんでしたし、会社の社長、工場の所有者、あるいは世界を支配する国際的な企業のオーナーでもありませんでした。
今日の福音書の朗読はB年に当たります、A年、C年とは異なり、イエスご自身がご自分について明確に説明しています。すなわち、ピラトに次のようなミステリアスな説明をしています。「私は王」(ヨハネ18:37)、「わたしの国は、この世に属していない。」(ヨハネ18:36)と。

ピラトに向けての説明にもかかわらず、ピラトは十字架に架けられたイエスの頭上に、有罪判決の原因となった「これはユダヤ人の王イエスである」(マタイ27:37)と書かれた罪状書きを掲げました。疑いなく、ユダヤ人は、少なくとも政治的、宗教的リーダーたちは、それに関して疑問を示しました。しかし、ピラトはそれを変えようとはしませんでした。なぜイエスが十字架につけられたのか。ユダヤ人たちはピラトと同じように、イエスが宣言したメシアニズムと神の国の意味を全く理解しませんでした。

イエスが宣言した神の国はどのようなものであったか
 ユダヤ人たちの過越の祝いのそのとき、ピラトはエルサレムに来ていました。イエスに対する裁きはエルサレムの宮殿ではなく、ピラトが住んでいた総督の館で行われたのでした。30年の4月のある朝、無防備な受刑者と、ローマ帝国の権力者の代表がそこで会ったのです。私たちは、この場面がどのようなものであったか、イエスの生涯を映像化した映画を通して想像することが出来ます。ヨハネ福音書は二人の会話を記しています。それは尋問と言うより、ヨハネ福音史家が興味を持っている、いくつかのテーマを明らかにするための、イエスのスピーチのようなものです。
 イエスは荘厳に宣言します。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する
人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)と。
このイエスの言葉には、預言者としてのイエスの歩みを決めるための基本的な特徴、すなわち、神の真理に生きる意思がしっかり言い表されています。イエスは真理を語るだけではなく、もっと人間的な世界、全ての人に対してもっと兄弟愛的な世界を望む、神の真理を求めます。

 ですから、イエスは権威と真実を持って語ります。真理やイデオロギーを強制的に押し付けようとする狂信者のようには話していません。あるいは役人のように、「信じることなく義務として守れ」とはおっしゃいまません。イエスは神の真理を己の宣伝には利用していません。自分の利益のためではなく、貧しい人、阻害されている人や弱い立場の人を守るために真理を語っているのです。

 嘘をついたり、不正を隠すことには我慢なさいません。イエスは「多くの声をもっている人たちに対する、声を持っていない人たちの声になります」(ジョン・ソブリノ)。

権威ある人たちがどのように力を使わなければならないと、イエスは言われているのか
 深刻な経済危機の只中で苦しむ現代社会は、この声を最も必要としています。政治的動きの基本は、本当のことを隠す、それが基準になっています。偽りの中で、人々に危機を過ごさせられます。この危機は、社会的な力を持つ人たちが原因です。しかし、可能な限り、その責任を隠します。弱い人や自分を守れない人たちの苦しみを、ひねくれた邪悪な方法で無視しています。数字を元に危機を計算するのではなく、人間的に見ることが緊急の課題です。人間の視点から扱うこと、苦しんでいる人のこと、状況が悪化していることをその人たちの身になって扱うことが求められます。
 真理を皆に要求しなければなりません。私たちは、社会から人を阻害することに慣れてはなりません。社会で最も弱い人たちが陥っている絶望に、無関心になってはならないのです。
イエスに従う人は、イエスの声を聞かなければなりません。この世の最後のもの、阻害されている人たちを本能的に守ります。守るために、出かけて行きます。政治家もイエスの声を聞かなければならないのです。

祈り
1. イエスの教会のため。
仕えられるためではなく、仕えるために来られた方の後に従うことが出来ますように。
2. この世で力と権威を司っている人たちのため。
イエスが望んでいたように、彼らがもっと幅広く、効果的な奉仕になる道具として、力を受け入れることが出来ますように。