カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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四旬節第1主日 マルコ 1・12-15

2021.12.21 (日)
「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(マルコ1・12)

 先週の水曜日、17日に今年の四旬節が始まりました。人類がパンデミックに襲われている中で過ごす四旬節です。そして、今日、四旬節の第一の日曜日をお祝いしています。今は、キリスト者に復活祭に向けての歩みに心を向けるよう促す期間です。今日の福音の朗読では、イエスはヨルダン川で洗礼を受けられた後、聖霊に導かれてユダの砂漠で40日間過ごし、サタンからの誘惑に打ち勝たれたことが読まれました(マルコ1・12−13)。聖霊はイエスに留まり、キリストであることを啓示しました。ユダの砂漠はヨルダン川の西側のオアシスにあり、石の谷が広がり、そこから1000メートル登ったところにエルサレムがあります。

「砂漠に行く」意味とは? それは「特別な社会の場」に行くこと
 しかし、多分、私たちは、「砂漠」について、ロマンティックなイメージを持っているのではないでしょうか。一面に広がる砂丘、オアシス、デーツの実が生っているナツメヤシの木。雨が降らず、風は、その砂が指の爪の間にも入ってしまうような砂嵐となって吹きます。 
イエスにとって、砂漠で40日間過ごすとは、どのようなことだったのか。イエスとその次の時代を理解するために、次のことを紹介してみたいと思います。

 あの時代、「砂漠に行く」とは、社会で普通に営まれていた生活を断つことでした。ファラオのもとにあったエジプトでは、それをアナコレシス(隠遁)と言っていました。自分にアイデンティティがない人の間で起きていたことでした。借金がありながら、それを法的な機関(市役所)において解決していない人たち、あるいは、その当時の社会に不満をもっている人たちが、兵士を殺したりしていました。
もしイエスが砂漠に行ったとすれば、こういうグループの人たちと遭遇したのではないでしょうか。村の責任者からは良く見られていなかったでしょう。当然、自分たちの家族からもそうだったでしょう。

 ですから、マルコ福音書の短い箇所で、イエスがどんなところに入ったのか、別の言い方をすれば、裏の世界のことを伺い知ることができます。「砂漠」は地理的な意味での場所だけではなく、社会生活に根を下ろせない人たちが住んでいる場所も表しています。そこには野獣も、悪霊もいます。このように、「砂漠」は、イエスの時代だけでなく、その後の時代においても、特別の意味を持っていました。私たちのこの世紀には、「砂漠の修道士」と呼ばれる人たちがはじめて現れたのです。その修道士たちの歴史はとても魅力的です。確かではありませんが、皆さんの中に教会の始まったばかりの頃について、興味をお持ちの方がいらっしゃるでしょうか。修道生活の起源について学ぶことができます。いつか、村や町での普通の暮らし方から離れて生活した、この修道士たちのことを分かち合いたいと思います。

今日の福音についての黙想:「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(マルコ 1・2)
 マルコは、イエスが福音宣教の活動を始める前に、「聖霊が砂漠に送り出した」と書いています。そこに40日間留まり、サタンから誘惑を受け、野獣のいる中に住み、天使たちに仕えられていた、と語ります。この短い文章は、イエスが砂漠で受けた誘惑が、イエスが十字架上で殺される最後の時まで受けた誘惑と基本的には同じなのだということを教えてくれる、「試練」の持つ意味についてのまとめです。
イエスは楽な生活や、落ち着いた生活を知りませんでした。聖霊に導かれていましたが、自分自身の身体に対する悪の力を体験しました。神の国のために全てを懸けたイエス、福音宣教、病人の癒し、様々な身分の人との人生の分かち合いが対立やピンと張りつめる緊張関係を産み、引き裂かれた人生を送りました。ですから、イエスからこそ、試練の時をどう生きるかを学ぶことができるのではないでしょうか。
霊は楽な生活には導きません。試練やリスクに満ちた、誘惑の道を歩ませます。神の国とその業を求める、自らを偽らず、心から神への信頼を宣言し、もっと真の人間に相応しい世界を目指して働くためには、イエスでさえそうだったように、どの人にも、常にリスクが伴うのです。

 イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた(マルコ 1・13)
砂漠は住みにくい場所であり、人を受け入れるような場所ではありません。試練と困難のシンボルです。それゆえに、生きるための土台を身に着けるのには最も適した場所なのです。しかし、自分自身の力に頼っていると、危険な場所になります。サタンは敵という意味、神に相反する力。神と神の国のために働く人、神の国のために働く人に敵対する力、それがサタンです。誘惑の中で、何が私たちの中にある真実か、あるいは偽りなのかが判ってきます。光、あるいは闇、神に忠実か、不正の共犯者であるか、誘惑と闘うことによって判ってくるのです。
 その生涯を通して、イエスは、どのような状況の中にあってもサタンの存在を発見できるよう、注意深く構えています。ある日、イエスはペトロを拒否しました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16・23)と。試練の時には、イエスのように生きていかなければなりません。注意深くいること、何が神からのものか、そして、何が私たちを御国のプロジェクトから逸らすものなのか、注意深く判断しなければなりません。

「野獣の間に住み、天使たちに仕えられていた」
野獣はこの地上でとても暴力的な存在です。イエスを脅かす危険を表しています。天使たちは被造物の中で最も良い存在。神との親近感を表し、同時に祝福、守り、支えです。このように、イエスはアンティパス(敵)から自分を守っていきます。「狐」と呼ばれていたアンティパス(ヘロデのこと)に対して、夜の祈りをもって御父の力を探し求めました。
 私たちはこの難しい時、試練の時、を生きています。特に、新型コロナウイルスの感染拡大のパンデミックの中、イエスに目線を合わせて生きていかなければなりません。神の霊が私たちを荒野に送り出しているこの危機の中から、刷新された教会が生まれなければなりません。もっと人間的に、苦しんでいる人に、もっと連帯感を持って、イエスが宣言された、御国の福音に忠実な教会であるように。

最後の招き
 私たちの師、そして主であるイエスに従って、私たちもキリスト者として、霊的に四旬節の砂漠に入ります。それは、イエスと共に悪の霊と戦うためです。
砂漠のイメージは、人間的な状況を最も表すシンボルです。出エジプト記にはイスラエルの民の体験が書かれています。エジプトから出て約束の地に辿り着くまで、40年間シナイ山の砂漠を歩む旅をしました。この長い旅の間、ユダヤ人は誘惑者の力の大きさと執念深さを体験しました。誘惑者は主に対する信頼を失わせ、エジプトに戻るように唆しました。しかし、民はまた、モーセの仲介のお陰で、神の声を聞くことも学びました。そして神からは、回心するようにと招かれていました。

祈り
 イエスを信じるすべての人々が、新型コロナウイルス感染拡大のパンデミックの中で、砂漠の体験を生きるように招かれています。具体的な連帯と愛の業を持って、他の人を励ますことができますように祈りましょう。
・日本の教会と一致して、この国に住んでいるすべての人のために祈ります。
特に、最も貧しい人、社会的に困難な状況に置かれている人が早くワクチンを
受けることができ、早く普通の生活に戻ることができますように。
・私たちの父である神よ、この四旬節の始めに、私たちの個人的な生活と、共同生活の回心に取り組めるよう、助けを祈り求めます。そして、同時に、私たちの家族、社会、世界がより良いものとなるよう、力を合わせることができますように。

私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。