カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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復活節第3主日 ルカ 24・35-48

2021.12.18 (日)
「あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24・48)

 復活節の典礼は、復活されたキリストへの私たちの信仰を強める助けとなる、多くの刺激をあたえてくれます。この第3主日には、ルカ福音書を通して、復活されたイエスに再び出会います(ルカ24・35−48)。今日読まれた箇所は、イエスが復活、エルサレムを離れての道中、エマオの村に差し掛かった時、復活したイエスに語りかけられた、あの二人の弟子たちの物語の続きです。

 エマオはわたくしにとって特別な場所です。なぜなら、2018年9月24日のわたくしの司教叙階の準備として聖地巡礼をした時、日本のサレジオ会員たちと共に訪問した、最後の場所でしたから。特に二人の若い会員たちとエマオのブドウ畑の間を歩いている時に、ルカが描いているこの箇所についてコメントしたことを思い出します。8月29日の、特に暑い時間でした。ブドウの収穫はすでに終わっていました。しかし、小鳥たちのために乾燥しかかったブドウがまだいくつか残っていました。私たちも味見をしました。

 今日の説教では、わたくしが訪問したエマオに思いを馳せ、ルカが描いていない、いくつかのデータを深めたいと思います。このような作業は、その福音的な場所をもっと強化する手助けになり、二人の弟子たちの新鮮さを味わいます。気づかないうちに、復活されたイエスご自身がエマオの巡礼者と共に歩いていました。

 ルカの24章13−35節は少し長いのですが、それを読むと、そこに私たちの信仰と共通のものが多くあることに気づかれると思います。ある意味では、皆さんがこれまで歩んでこられた人生は、「エマオの道」だったのではないでしょうか。遠い国から日本に来られた方たちにとっては、それは「長い」エマオの道だったかもしれません。特に、日本に来てからの難しい時を乗り越えた人たちは、教会に近づき、今日も日本の社会の中で、他の様々な国籍や言葉の違う人たちと共に、キリスト教信仰を以前にも増して深く生きているのではないでしょうか。

エマオはどこにあるのか、今だれがそこにいるのか
 考古学の研究によると、エマオの位置は、現在のクベーべ辺りと考えられるそうです。これは「エマオの城」と言われるローマの昔の要塞で、北のエルサレムから70スタディオン(11キロ、あるいは7マイル)にあります。西暦135年に、フランシスコ会の司祭たちがその場所にたどり着き、地元の伝説などを頼りに、クロパの宮殿の場所を確認することができたのです。1902年、そこを復活されたイエスが旅されたことに因んでロマネスクスタイルの教会が建てられ、今に至っています。

ルカが語ること
 ルカによると、この二人の弟子たちは、絶望していました。それはイエスが十字架につけられたから、彼らはその目撃者だったからです。何しろ、その1週間前、イエスは勝利のキャラバンの如くにエルサレムに入り、人々の喜びの叫びの中、通る道に木の枝を敷いて迎えられたのですから(マルコ11・8−10)。家の中に身を潜めている弟子たち、恐らく、根元から枯れていたいちじくの枝が、悪夢のように悲しい出来事へと転じたことを思い出させています。
 エルサレムを後にしたとき、彼らはイエスの亡骸が墓からなくなっていたことを知っていました。婦人たちがその情報を届けていたからです。しかし、彼らの誰一人として、それを信じてはいませんでした(ルカ24・11、22−24)。彼らは驚きと不信仰を持って、その出来事を旅人姿のイエスに語りました。あの婦人たちは、イエスが復活したというアナウンスを天使たちから受けたということを語っていました。しかし、弟子たちの仲間の誰一人として、その目撃者ではない。今、悲しみが襲い、信仰が揺れ動いたのです。

 ルカのこの箇所は、私たちを驚かせます。この徒歩での旅は約2時間かかったでしょう。家に着いてから、夕食の準備のために、さらに1時間かかったでしょう。それでもなお、彼らと話している人が誰であるか、彼らは分かりませんでした。食卓につき、復活されたイエスがパンを取り、祝福し、それを裂いて分け与えた時、はじめて彼らの目は開いて、彼らに同伴した人が主であることに気づきました。そのために、約3時間かかりました。しかし、考えてみれば、一生涯、主に寄り添われていながら、その現存に気づかない人が多い、ということが言えるのです。

なぜ、イエスを見ることができなかったのか
 目が遮られていると書かれています。すなわち、二人の弟子たちの目は、何かに覆われているかのように、主を見ていても、主と認めることができなかった。人として、その時が来るまで、彼らの目は“覆われていた”のです。
しかし、ルカは本当の理由を述べています。神のみが信仰の目と理性の扉を開くことができる(ヨハネ21・4)、主のみがこれを可能にすることができる(ルカ24・31)と述べています。

その道を歩んでいた時間、何について話し合っていたか
 二人の弟子たちは、その日に起きた出来事について話し合っていた、とルカは記しています(ルカ24・14、17−24)。エルサレムで起きたこと、どのようにナザレのイエスが十字架にかけられたか、そして、師の最期が、イエスにかけていた彼らの信頼を崩してしまったこと、預言者を通して約束されていた多くの奇跡を行ったにもかかわらず、イエスは預言者が約束していたメシアではなかったこと、など。彼らの目は遮られていました。これは信仰の危機でした。そして、イエスの弟子であったことで迫害されるかもしれないと、彼らは恐れを抱いていました。ですから、師であるイエスを殺したユダヤ人のリーダーたちに捕まらないように、なるべく早くエルサレムから離れようとしたのでした。

私たちの信仰のための黙想
 私たちの人生の様々な時に、「エマオの道」は現れるかもしれません。人生の期待が実現しない時、選ぶ道を諦め、回避の道。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(ルカ24・21)。エマオの道は、私たちが人生に迷っている時、方向性がつかめない時、希望が叶わない時に、戻った方が良い、そのような道なのです。「私たちが戻っていくべき道」、それが「エマオの道」です。
「エマオの道」にはイエスが現れます。しかし、私たちは、しばしば、不信仰に陥り、偶像を礼拝しているのです。「エマオの道」へ戻りさえすれば、イエスが向き合い、私たちに、人生を見直すようにと呼びかけてくださるのです。

 エマオの道は、私たちが救い主であるイエスに出会う前に通過した道なのです。復活されたイエスが、エマオで私たちの旅の同伴者になり、そうと気づけないでいる私たちの心に信仰と希望を燃え立たせてくださいました。世俗の力と絶望が汚したものを取り去ってくださいました。

聖霊に願いましょう。
今日私たちと共に歩まれる、復活されたイエスに対する私たちの信仰を力づけ、今を生きるための力を与えてくださいますように。
愛の業の行いを通して、イエスが生きていることを証し、多くの人がイエスに近づくように励ますことができますように。
御言葉に耳を傾けながら、ミサを通して与えてくださるパンを受けながら。
復活されたイエスの証人となりましょう。