カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

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クリスマスの黙想 2021

2021.12.24 (金)
幼な子イエスの馬小屋の牛とロバ

クリスマスが来ます。世界の多くのキリスト教の家庭では、ベツレヘムの馬小屋を置いてイエスの誕生を祝う習慣があります。馬小屋を置くことは一つの伝統です。様々な形があります。ある家庭では重要人物だけを選んで、すなわち、牛とロバの側に聖ヨセフ、聖母マリアと幼な子イエスを置きます。
しかし、世代を経て、次第に、馬小屋の中に他の人形を加えるようになりました。博士たちとらくだ、職人、洗濯女、ローマ兵士、羊飼いと羊たち、あるいは牛とロバなどです。今日はこの二つの動物について話します。聖ヨセフと聖母マリア、幼な子のうしろにこの二つの動物がいます。

なぜ、牛とロバがベツレヘムの馬小屋に現れたか
 馬小屋の伝統の初期に遡ります。それはイエスの誕生を、馬小屋に集中して表す習慣が教会で生まれた時です。
この原点は1223年のクリスマスにあります。アッシジの聖フランシスコがキリストの誕生を表しました。当時フランシスコはイタリアのグレッチオにいました。そこはローマからアッシジの南90キロ位のところにあります。現在グレッチオは人口1500人の、自然に囲まれた静かで小さな村です。
フランシスコは、自然と被造物と、その創り主と一対一でいるため、そこの生活が好きでした。1223年のクリスマス、フランシスコはその村にいました。人生の終わりの頃、健康面では少し問題があった彼は、その3年後の1226年に彼は帰天しました。
人生の終わりが近づいていると感じた時、フランシスコに、インマヌエルとメシアであるイエスの誕生を表現するインスピレーションが湧きました。グレッチオの人々や動物たちを参加させる演出です。「実際に幼な子イエスがベツレヘムで誕生したことを、できる限り見える形にしたかったのです。幼い頃の悲しみや、不便な生活の苦労を表そうとしました。この眼で見たい。どんなふうに飼い葉桶に寝かせてあったのか。藁の上で、牛とロバの間に寝ている姿を。」とフランシスコが語りました。ですから牛とロバがいつも馬小屋に設置されているのです。

イエスの馬小屋にいる牛とロバは、どのような意味を持ち、何を表しているのでしょうか
(J.ラッツィンガー)
 伝説によると、ロバはこの世の中で最も謙遜な動物と言われています。一方、牛は、イエスをその息で周りを温める役割を持っています。なので、牛とロバはこの馬小屋に加わるようになりました。
しかし、この動物たちは実際、どこから来ているのか。最初に見たところでは新約聖書のクリスマスの語りは、これにつて何も言っていません。
しかし、さらに深めていくと、クリスマスの習慣の最も重要なことに行き当たります。特に教会での、クリスマスや復活祭の典礼に対する信心と同時に深まった、庶民的な使い方がそれです。
牛とロバは単なるファンタジーからできたものではありません。教会の信仰によって、旧約と新約の一致の中で、降誕祭の出来事を共にするものになりました。イザヤ預言書に、具体的に次のことが書かれています。「牛は飼い主を知り ロバは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず わたしの民は見分けない。」(イザヤ1:3)

 中世のクリスマスの表現では珍しいものになっています。動物は、ほとんど人間の姿を真似ているようになっていて、幼な子の神秘の前に跪いているのです。まるで、出来事を理解しているように、そして、礼拝しているように見えます。
しかし、これは論理的で、また当然でした。なぜなら、この二つの動物は、預言的シンボルであったからです。その裏に教会の神秘、私たちの神秘が隠されています。なぜなら、私たちが牛であり、ロバなのです。降誕祭の夜、目を開けば、馬小屋に主を見出します。

牛とロバは誰を意味しているのか。誰が本当に見えるのか
私たちが牛とロバを馬小屋に置く時、イザヤのあの言葉を思い浮かべなければなりません。それは福音であるだけでなく(知識としての約束)私たちの盲目に対する裁きでもあります。私たちにとって、気づかなければならない知識です。牛とロバは知っている。しかし、イスラエルは知らない。私の民は知性を持っていない。

 今日、牛とロバは誰を意味しているでしょうか。知性のない『私の民は』誰のことでしょうか。何によって、牛とロバ、そして、私の民を知ることができるのでしょうか。理性が無いにもかかわらず知っているという現象、その反対は、見えない状態になる、盲目であるということです。
返事を見つけるためには、教会の教父たちと最初のクリスマスに戻ることが必要です。

だれが認めなかったのか、誰がイエスを認めたのか、どうしてこのようなことが起きたのか
知ることができなかったのはヘロデです。幼な子の誕生について話された時も、彼は理解できませんでした。彼には支配、その権力のへの野心、そして、迫害の被害妄想があっただけでした。だから、彼は盲目でした(マタイ2:3)。

 『エルサレム全体』もイエスのことを知らなかったし(マタイ2:3)、豪華な服装の偉い人たちが、知ることは出来ませんでした(マタイ11:8)。知恵あるとされていた人、聖書の専門家など、聖書の箇所を間違いなく知っていましたが、この幼な子が誰であるかを理解できなかったのです。
牛とロバを認めたのは、羊飼い、博士たち、そして、マリアとヨセフでした。他の方法があり得たのでしょうか。イエスが生まれた馬小屋に、立派な人たちは見当たりません。そこには自分の家にいるように、牛とロバがいます。

しかし、私たちには何が起きているのでしょうか。私たちがこの馬小屋から遠く離れているのは、自分のことを立派であるとか、知識があると思っているからでしょうか。私たちも知識ある人たちのように聖書を知的に解釈し、そのことによって、かえって見えなくなってAいるのではないでしょうか。本当なのか、嘘なのか、信憑性があるのか、ないのか、それを証明するためのしるしを探しています。しかし、その幼な子に対してかえって盲目になり、その幼な子について何も感じなくなっています。

エルサレム、宮殿に留まりすぎたのではないでしょうか。自分自身に閉じこもり、自分の名誉、自分の栄光に、迫害妄想に捉えられているので、天使たちの声がすぐに聞こえない。そして馬小屋に行かない、礼拝しないことになります。

このように、今夜、牛とロバの顔が私たちを見て、「私の民は知識に長けている。あなたの主の声を理解できないのですか」、と問いかけています。馬小屋の中にいつもの人形を置く時、私たちが神に願わなければならないことは、1223年にグレッチオで聖フランシスコがしたこと、すなわち、幼な子に主を発見するように、素朴な心を神に願うことです。グレッチオのお祝いに参加した人たちについて、セラーノが言ったことと同じこと、聖ルカの言葉にあるように、あの最初の夜に、羊飼いたちに起きたことが私たちにも起きるのでしょう「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ2:20)

あとがき:
この黙想はラッシンガー枢機卿の書物からのものです。1983年シゲメ出版(スペイン、サラマンカ市)より出版された「神の顔」より(「馬小屋に牛とロバ」19〜25ページ)。あるいは「降誕祭の祝福:黙想」の中から。ラッシンガー・ベネディクト16世:ヘルデル出版(バルセロナ2010年):そこに(「馬小屋に牛とロバ」53〜69ページ)。