カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第22主日 マルコ 7・1-8,14-15,21-23

2021.12.29 (日)
兄弟姉妹のみなさん
 新型コロナ・ウイルスのパンデミックが人類に齎した、この長い「試練の時(教皇フランシスコ)」、日曜日の典礼を通して、神の言葉が私たちに思い起こさせたものを黙想し続けてきました。さまざまな聖書の研究や、世界の司教や司祭たちの言葉が、この黙想の助けになりました。
 主日の三つの朗読と答唱詩篇を聞き、今日、世界で起きている出来事の中で、私たちがどのように生きたら良いか、見出せるように努めましょう。

今日の人類への挑戦を前にしての私たちの姿勢
 現在、人類は、多くの問題や挑戦を前にしています。例えば、暴力によって、平和な生活が脅かされること、あるいは、激しい気候変動のために、多くの人々が他の国や場所へ移動しなければならないこと、そして、経済的な欲望とイデオロギーによって、世界を支配しようとする多くのグループの権力が、この地球を衰えさせようとしています。これは人類にとって永遠の問題です。悪の力が善の力をコントロールしようとし、この世の主になりたがろうとします。しかし、そうではありません。世界の状況を伝えるニュースによって、私たちのメンタリティーに影響を与えようとしていますが、この悪いニュースに含まれていない「善の力」があります。私たちがYouTubeや他のデジタルメディアで短いプログラムを見る時、出来事についてのバランスのとれた解釈をすることは、簡単ではありません。人間的な事には、常に間違いが見つけられます。闇の中に、もっと光を見るべきです。連帯性をもって動き、社会生活を向上させるために働き、そして神が創造された自然を守り、育てなければなりません。

 灯台の灯りに導かれて、船員たちが安全に港に辿り着けるように、カトリック教会は教皇フランシスコの世界的リーダーシップによって進みます。灯台の灯りとなる人たち、特にこの世界を築く責任を持っている人たちは、出来るかぎり早く力を合わせなければなりません。気候変動、戦争や暴力から逃れる場所を求めている人たちのために。

第一朗読(申命記 4:1−2、6−8):どのように知恵ある民、大きな国になれるか
 昔からの誘惑があります。さまざまな言語や習慣、他の宗教の人々を尊重して共存することを学ぶより、昔からある形式的な儀式を行うことに、宗教の重点を置こうとする誘惑です。この誘惑が聖書の民であるイスラエルの人々にもありました。詩篇が思い起こさせるように、私たちを神に近付けるのは祭服の数や儀式の誇張ではなく、正義、誠実、正しい動機、尊重、忍耐です。正義を宣言しながら毎日を生きること、それが、聖書が教えてくれる最も重要な要求です。このことについては、他の宗教の書物も同じなのです。儀式や決まりは、神の道を生き続けるための助けにはなりますが、その代わりではありません。このような理由に基づいて、モーセが民に向けて告げた勧めは、神の民は、彼らをエジプトから導き出した神の自由と正義を選ばなければならないことでした。そうでなければ、約束の地の夢は、悪夢になってしまうかもしれません。実際、イエスラエルは民として、そのような時を何度も体験しました。自分の国を失い、長年にわたって追放の地に住み、ヨーロッパやアメリカに分散して行きました。

第二朗読(ヤコブの手紙 1:17−18、21b−22、27)
 初代のキリスト者も、形式や儀式がもたらす脅威を体験しました。最初にこそ、熱意と献身がありましたが、徐々に熱意が失われ、共同体の中では、まもなく、形式的で、機能的な事柄だけが先行してしまい、最も大切な、キリスト者としてのアイデンティティー、すなわち、兄弟愛が失われるようになって行きました。
 ヤコブの手紙は、福音の価値観を身に付けさせない状況に対して、注意を呼びかけています。今日読まれた聖書の箇所は、黙想し、素直さを持って日常生活を生きるための、私たちへの勧めの言葉でもあるのです。

福音(マルコ 7:1−8、14−15、21−23)
 イエスも、申命記の述べられたと同様な有様を身近に見ています。申命記は連帯、平等と正義の絆を作るための、論理的な教えとして勧められていますが、1世紀のユダヤ教は、形式を重んじる方へ傾いて行ってしまっていました。食べる前に手を洗うか洗わないかは、衛生上の問題なのですが、それを、誰が宗教心を持っているか、それとも罪人であるかの判断基準にしていたのです。物、儀式、場所、時、によって物事を決めつけたいという誘惑、それは、しばしば、特に、信心深い人に、神との関係の根本は社会文化的な決まりではなく、互いへの尊重と憐れみにあることを忘れさせてしまう可能性があります。
今日、キリスト者であることを恐れず、恥ずかしく思わないことが特に大切です。イエスのメッセージを生き、宣言する喜びを感じられますように。これは、困っている人に対する私たちのいつくしみの行動から齎されます。私たちと違う人たちに対する尊重と受け入れを大切にし、彼らに対して厳しくなリ過ぎないようにしましょう。
 イエスの両親であるマリアとヨセフのご保護を求めながら終わりましょう。
私たちが良いキリスト者として共に生き、そして、良い市民として、全ての人に心が開かれますように。