カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2020年  次の年→ 

駐日教皇大使ジョセフ・チェノットゥ大司教様(Joseph Chennoth)の帰天に接して

2020.12.18 (金)
「主の慈しみをとこしえに歌い、主のまことを代々に告げよう」
(詩編89・1)

大司教さまはマリアさまの誕生の日に天に召されました
 8日の朝、親愛なる私たちの教皇大使、ジョセフ・チェノットゥ大司教様の帰天の知らせを受けました。その後、大司教様が亡くなられたのは真夜中の1時29分だったことが分かりました。ちょうど、カトリック教会が、神の母であるマリア様をお祝いし始めたときです。さいたま教区を代表して、事務局長の斎藤優助祭と一緒に大使館へお悔やみに伺った時にそのことを、教皇代理大使のべチェスラフ・トゥミル司教様と話しました。

教皇大使の思い出
わたくしの個人的な思い出をいくつか分かち合いたいと思います。

魅力的なお人柄
 大司教様は2011年10月29日に駐日教皇大使となられて来日され、わたくしの記憶に間違いなければ、翌年の1月31日にサレジオ会の管区長館にお出でになり、サレジオ会の創立者のお祝いの祈りと、夕食を共にしました。覚えているのは、私の苗字をすぐに覚えてくださったこと。山野内の「う」を強調したアクセントで。その時から、毎回お会いする時にはそう呼んでくださって、お互いに笑っていました。
また、初めて共同司式をした時、彼の日本語のミサはわたくしに衝撃を与えました。
日本語のミサを間違えないように、特に日本語でのメッセージや、説教をしなければならない時には、とても熱心に練習していらっしゃいました。最初の時から、共感と優しさ、微笑みと親近感で、私たちの心は引き寄せられたのではないかと思います。

さいたま教区の司教の任命を伝えてくださった時のこと
 チェノットゥ大司教様についての最も感慨深い思い出の時、それは、間違いなく、わたくしを呼んで、さいたま教区長の任命を伝えてくださった時です。意図的だったのか、あるいは偶然だったのか、ちょうどその一週間前、私は大司教様に呼ばれました。それは、ケララからご親戚が来られるので、東京を案内してほしいということでした。後日、感謝の電話をくださり、来週の金曜日にもう1つのお願いがあるので、大使館に来られますかとおっしゃいました。わたくしが大使館に着くと、笑顔で迎えてくださいました。美味しいコーヒーをいただきながら、ソファに座って、開いた窓から外を眺めると、庭には白い扶助者聖マリアの像が見えました。それはドンボスコ社が贈ったものです。4月、桜が咲く時に像が最も美しく見えます。すると、教皇大使は何も前置きなしに、教皇フランシスコが、わたくしをさいたまの司教として任命されたとおっしゃいました。ここに4枚の紙があるので、15分で教皇様にその任命に対する返事を書くようにと。わたくしは、紙は一枚で充分、あとの3枚は間違った時のためだと思いました。しかし、いざ書き始めようとすると何も頭に浮かんで来ません。やっと20分ほど経って、スペイン語で3ページのお返事を書きました。教皇大使はその様子をご覧になって、わたくしがその役目を受けられないという言い訳を書いたと思われたようでしたが、わたくしの書いた返事を読むとすぐに教皇大使のお顔が、暗い表情から明るくなりました。微笑んでいる、いつものお顔でした。

司祭職への召命と外交官としての奉仕
 大司教様は司祭職に呼ばれ、教皇大使として中央アフリカ、タンザニアと日本での骨の折れるであろう奉仕を、持ち前の微笑みを持って神に感謝した方です。生き方と霊性は、詩編89番の最初の言葉、「主の慈しみをとこしえに歌い」に反映されていると思います。イエスと教皇フランシスコのように、教皇大使の心は神の愛に満ちていましたから、行く先々で出会う様々な人に慈しみを注ぐ人でした。このように生きられた司祭叙階50周年をお祝いした時に、私たちもその生き方に心を打たれました。おそらく、昨年の教皇来日の年が、日本の教皇大使としての奉仕の集大成の年だったのではないでしょうか。

 さいたま教区の司祭の皆様に、小教区のミサの中で、ジョセフ・チェノットゥ大司教様のための意向を持って、そのご冥福をお祈りくださいますようにお願いします。大司教様を日本の教皇大使として送ってくださった主に感謝します。

 教皇大使ジョセフ・チェノットゥ大司教様の永遠の安息をお祈りします。