カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第21主日 マタイ 16・13-20

2020.12.23 (日)
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける(マタイ16・19)

 今日は年間第21主日です。今日のみ言葉についてのコメントの前に、第二バチカン公会議によってもたらされたカトリック教会の刷新によって決められた、日曜日の聖書箇所の新たな構成について説明します。

神の言葉から信仰生活を照らす
 第二バチカン公会議による典礼刷新を思い起こしましょう(典礼憲章1963年。)社会の変化が加速している今、神の言葉を注意深く聞くことによって、キリスト者の信仰生活が照らされますように。私たちの典礼で現在使われている聖書の朗読やその順番が公表されたのは1981年でした。

 選ばれた基準は、キリスト者が神の言葉をより深く知るようになるためです。まず、旧約聖書に記された様々な出来事が、何世代にも渡って、人類に寄り添う神の歴史として発見され、心に刻まれるように。そこに基本となる重要な出来事、習慣と教えがイスラエルという民を通して伝わっています。

 典礼刷新によって、聖書箇所は2つに分けられました。日曜日と平日です。例えば日曜日と祭日のミサでは3つの朗読と答唱詩篇があります。旧約のテキストは、福音と関連しているものが選ばれています。ですので、日曜日のミサでは第一朗読と福音が互いに照らし合い、そこに共通のものがあることに気づきます。書物には歴史的な距離があるにも拘らず、このように共通する点があるのです。

そして、日曜日の朗読はA年、B年、C年という3つのサイクルに分かれています。今年2020年はA年です。A年ではマタイ福音書が読まれ、B年ではマルコ、C年はルカが選ばれています。待降節、降誕祭、四旬節と復活節では、その時の特徴に考慮してテキストが選ばれています。

 このように分けられていますので、3年間を通して通常ミサに参加すると、4つの福音をすべて聞くことになり、私たちの信仰生活が照らされ、イエスの最も重要な出来事と言葉に触れることができます。

 第1朗読ではイザヤの短い箇所が読まれます。この箇所を歴史的な背景に位置付けることを勧めます。エルサレムの宮廷を支配している人、シェブナに渡された、シンボル的な「鍵」のことが語られています。シェブナは自惚れ、要求し過ぎ、その役にふさわしくなかったと語られています。そして、これは、福音書につながります。イエスはシモン・ペトロに鍵を与えました。それはペトロが教会の礎になるためになさったことです。

第1朗読(イザヤ22・19−23):わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く
 イザヤ書に記されていることは、おそらく最初の追放の直前の時代についてでしょう。反乱の企ての報復として、バビロン帝国は、紀元前597年に、最も重要な人たちを(文化的、専門的なスキルを持った人たち)、強制的に連れて行き、メソポタミアの様々な町や農家で働かせました。この出来事はイスラエルの信仰にとって大きな痛手となりました。おそらく、彼らの歴史には、これほどのことはなかったでしょう。神が約束を守らなかった、神は失敗し、負けた。そして、ダビデの家はとこしえに守られる、という約束を果たすことができなかった。約束の神に対する信仰、ダビデ王の神が崩れてしまったのです。

その箇所にエルサレムの宮廷の責任者であるシェブナが現れています。この人は宮殿の鍵を手にし、権力を保つため、ただそれだけのために采配を振るい過ぎました。こういう傲慢さは、王室制度の崩壊の現われであり、宮廷が行き詰っていることを顕わにしています。

 この状況を前にしたイザヤは、この支配者に対する神からの天罰を宣言します。彼が犯した勝手な不正を訴え、彼がやってきたことの終わりを告げたのでした。

福音朗読(マタイ16・13−26) あなたはペトロ。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
 この箇所は、マタイの共同体が理解してきたことを取り上げています。イエスの人となりについて、アイデンティティーについての確認をしています。最初に、イエスは人々に自分に対する意見を聞きます。イエスの時代に問いかけられたこの質問は、今日私たちにも問いかけられています。

答えは2つの視点から与えられます。人々の視点からは、イエスがどういう人であるかを人々が評価します。もう一つは聖霊がペトロに掲示される神からの視点から。善意の人はイエスの働きを見て、救いの時代を準備するために、神から特別に送られた方として扱っています。待ち望んでいたメシアだと宣言します。そして、イエスは、この宣言が父である神の啓示であることを強調しています(マタイ11・27)。それゆえに、ペトロという、イエスから受けた新しい名前には特別な意味があるのです。

 その後、イエスはシモン・ペトロの明確な役割について宣言しました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ16・19)と。
 イエスは新しい神殿(共同体)を建てることを提案します。ペトロを基礎の石として。ペトロという言葉は、ペトラ、座、石、岩、という意味です。建物が建てられる土台。この建物は教会と言われる共同体を意味しています。これはイエスのものであって、イエスの望みです。教会はイエスのもの、その望みによって、ペトロは「鍵」を持ち、仲介者の役割を果たさなければなりません。人間的な悪は、これに勝つことはできません。

 このテキストを巡っては、ペトロの後継者である教皇の姿に関して様々な議論が、カトリックとプロテスタントの間にあります。カトリックの伝統では、この言葉はペトロと信仰と愛に基づいて、後継者になる人たちのことである、と主張しています。一方、プロテスタントの伝統では、このイエスの言葉は、ペトロのペルソナではなく、ペトロの信仰の姿勢を褒める言葉であって、約束であると。

今日の私たちの核になる重要な質問
 イエスの質問、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」は今日の私たちの共同体、そしてパンデミックの中で生きている私たちにも向けられています。私は、イエスが何者であると言っていますか。イエスは私にとって、誰でしょうか。何者でしょうか。

祈り
 キリスト者として、イエスの弟子として、全ての人々と分かち合う、連帯の精神を持って、共に生き、特に新型コロナウイルスによって危機の中にあり、最も助けを必要としている人々に、私たちの心の扉を開くことができますように。祈りましょう。