カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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王であるキリスト マタイ 25・31-46

2020.12.22 (日)
今日、私たちは、典礼暦年の最後の日曜日、王であるキリストの祭日をお祝いしています。ですから、今日の福音書にある、最後の国々の審判を黙想する前に、このお祝いの歴史を思い起こしましょう。

このお祝いの起源とその背景
 「宇宙の王であるイエス・キリストの祭日」はカトリック教会のお祝いで、典礼暦年の最後の日曜日に位置付けられています。従って、その日付は11月20日から26日の間になります。
元々このお祝いは、王であるキリストの祝日として、教皇ピオ11世の回勅クアス・プリマス(Quas Primas)において、1925年12月11日、第1二ケア公会議(現在のトルコに当たり、325年に行われた)の1600周年の記念、聖年のお祝いにあたって制定されたものです。当時は、10月最後の日曜日がこのお祝いの日とされ、「諸聖人の祭日(11月1日)」の直前の日曜日でした。しかし、第2バチカン公会議後の1969年、パウロ6世による教会改革で、このお祝いの意味が変わり、名称も変わりました。それは「宇宙の王イエス・キリスト(Solemnidad de Jesucristo, Rey del Universo)の祭日」とされ、ローマ典礼において年間最後の日曜日に祝われるようになったのです。
 どのように、そして、どういう姿勢で、イエス様が望まれる王国と社会を築けばよいのでしょうか。今日の福音書に従って、それについて考えてみたいと思います。

国々の審判の物語(マタイ25・31−46)
 この物語は、すべての国々に対する最後の審判を喚起していますが、同時に、私たち一人ひとりの人生の終わりをも語っています。すなわち、この話の目的は、最後の出来事を描くことではなく、人生の最後の試練を乗り越えるために必要な準備について教えることです。御国に迎えられるのは、隣人に対してのいつくしみの愛を持っている人たち、ということです。
 すべての場面は、裁判官である復活されたイエスと、2つのグループとの長い対話になっています。必要としている人たちの苦しみを和らげた人たちと、助けを拒んで生きて来た人たちのことが語られています。
 長い世紀に渡って、キリスト者はこの魅力的な対話を、「福音の最高のまとめ」として見ています。助け合う愛へは絶対的な称賛、隣人の苦しみを無視し、偽りの宗教に逃げながら生きることへは重大な警告が語られています。
いくつかの基本的なことが繰り返し強調されています。例外なく、すべての男と女が同じ基準で裁かれること、人生に不滅の価値を与えるのは、社会的地位、個人的な才能や長い年月をかけて得た成功ではないこと、決定的に大切なことは、困っている人を助ける愛と連帯性であることが強調されています。

困っている人に対する具体的な行動
 愛は具体的な行動で表現されます。隣人に対する愛の現れについては、旧約聖書に6つの姿が書かれています。例えば、イザヤ(58・7)と、ヨブ記(22・6〜)の中に。また、新約聖書では、マタイは具体的に列挙しています:食べ物を与える、飲み物を与える、旅人を受け入れる、裸の人に着せる、病人と牢にいる人を訪ねる、と。
神の前で決定的なことは、宗教的な行動ではなく、必要としている人たちの尊厳を保つこと。信仰者からはもちろんですが、無神論者の行動もあります。信仰を持っていなくても、苦しんでいる人を思いやり、助ける、ということです。
 マタイ25章にある、困っている人を助けたグループの人たちは、自分の人生の歩みの中で、宗教的な理由でそうしたのではありません。神やイエス・キリストのことを考えていたわけでもありません。ただ単に、なぜかこの世にある苦しみを見過ごすことができず、ふと気が付けば、苦しむ人に手を差し伸べていただけなのです。

キリスト者と、まだキリストを知らない人々への強い呼びかけ
 今日のこの物語から気づかされることは、イエスを知らずとも、御国の価値観に合わせて隣人を助け、愛を施し、その運命を決めている人々が多くあるのだということです。普遍的なすべての裁判官であるお方は、誰にも知られずに、地上のすべての貧しい人の中に、苦しんでいる人の中に隠れていてくださっている。そして、その隠れたお姿は、最後の時に顕になるというのです。
イエスのこの教えは、油断してキリスト者としての務めを果たさなかった人たちにも向けられています。眠りから目覚めさせるため、この世で助けを必要としている人たちに対する姿勢が各々の運命を決めることになることを思い起こさせるために。
この福音的教えを実践した人々のみが、キリスト者であろうとなかろうと、御父に祝福された者として神の国に入るようイエスから招かれます。

苦しんでいる人に気づき、思いやりを持って接することができるようになれますように
 なぜ、困っている人を助けることが決め手なのか、助けを否定することが間違いなのか。
今日の福音は、彼らにすること、または、しないことは、受肉した神自身にしているか、していないかということになるからだと気づかせてくれます。
困っている人を置き去りにしている時、神を置き去りにしていることになります。彼らの苦しみを和らげている時、神自身にそうしていることになるのです。今日のこの驚くべきメッセージは、苦しんでいる人を私たちに見えるように、私たちの前に置いてくれます。
 最も必要としている人を守らず、その苦しみを和らげず、彼らの尊厳を取り戻さずに真の宗教はないのです。進歩的な政治も責任ある人権の宣言もないのです。
 苦しんでいる人、一人ひとりの中に、イエスが私たちのところに出向いて来られる姿があります。そして、私たちを見て、質問され、疑問を投げかけられるのです。まず、立ち止まって、苦しんでいる人の顔から眼をそむけないことができれば、神は私たちに思いやり心を生じさせてくださるに違いありません。その時見えてくるもの、それがイエスのお顔なのではないでしょうか。イエスの顔を、これほど真に認める方法が他にあるでしょうか。

祈り
イエスの教会のために。仕えられるためではなく、仕えるために来られた方の足跡を辿ることができますように主に祈りましょう。
また、この世で、力と権威を持っているすべての人々のために祈りましょう。イエス様が望まれたような権威を、もっと普遍的で実践的な奉仕の道具として受け入れることができますように。
また、「方々を巡り歩いて人々を助け」、そして、「私たちと同じようにへりくだったイエス」が私たちのモデルであり、導きであり、私たちの王、神の国の建設の力でありますように主に祈りましょう。

最後の祈り
私たちの父である神よ、あなたは私たちがあらゆる意味で奴隷状態から解放されること、圧迫からの解放のために戦うこと、そして神の国の実現を、望んでおられます。私たち皆が兄弟姉妹として生き、あなたの真の子どもとして、まことの平和と正義と自由のために生きられますよう、私たちの歩みを導いてください。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン。