カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第33主日 マタイ 25・14-30

2020.12.15 (日)
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、
多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
(マタイ25・23)

 タラントンのたとえ話(マタイ25・14−30):歴史の中への主の訪れ
今日の福音朗読では、よく知られている「タラントンのたとえ」が読まれました。このたとえ話だけでなく、これより前の箇所も、人の子(イエス)が、国々を裁くために、将来、最終的に訪れる時に、共同体はどのように準備すれば良いのかについて語っています。

 初代教会のキリスト者は、いつ主が再び訪れるのかはもちろん知りませんでした。しかし、訪れるであろうこと、そしてそのときはもうすぐなのだと感じていたようです。そのような彼らに、イエスは、泥棒が夜の間にやって来るように突然にやってくるというたとえ(マタイ24・43)(ルカ12・39)(一テサロニケ5・2)や今日の「タラントンのたとえ」はどんなふうに響いたのでしょうか。

 しかし、彼らの期待通りにならず、時が過ぎ去っていました。その訪れを待っている間に、復活された主が、すでに共にいたということに気付きます。しかし、物理的な姿を見ることはできませんでしたが、彼らは信仰の目で、そのことに気づき、とても重要なことを発見しました。主は時のしるしを通して、ご自分の現存を知らせている、歴史の出来事を通して、キリスト者と人類が、どのような道を歩むべきかを示してくださるのだと気づかされたのでした。具体的には、書かれた時代と様々な場所で生じてくる歴史的な課題が、それぞれの世代の男と女に向けての、主の呼びかけであること。キリスト者と、そして善を求めるすべての人々は、これらの課題にどのように向き合えばよいのかを識別しなければなりませんでした。神が歴史の主であるのですが、私たちが主人公になって、この世を改善する建設者として生きるように。私たちの間にある、神の国の実現の協力者であるように、神は働いておられるのです。 

理解に苦しむ箇所にこそ特別なメッセージがある
 たとえ話の中の3番目の僕は、何も悪いことをしていないのになぜ罪に定められたのでしょうか?マタイが共同体に伝えようとしているメッセージに、遠回りせずに近付きましょう。

 このたとえ話を読むたびに、3番目の僕が何も悪いことをしていないのに罪を犯したとされたことにわたくしは驚きます。2タラントンを預かって2倍に増やした僕を褒めた後、安全な場所に1タラントンを隠した3番目の僕は主人の前に進み出て言ったのでした。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。』」(マタイ25・24−25)。そして、その僕を外の暗闇に追い出せ、と命じたというのです。

イエスのメッセージ:世を変えるリスクを負う努力に対して、「はい」と応える勇気を!
 キリスト者となった後の私たちがしばしば犯す過ちは、できるだけリスクを避け、より安全な生活を求め、すべてに秩序を保ち、人生のすべての問題には前持って答えがある、そう期待する者になっているように思われるのです。例えば、わたくしは幼い頃から教会や神学校で、「保つ」と言う言葉をよく耳にしました。信仰の預託を保つ、伝統を保つ、良い習慣を保つ、良い教育を保つなど。

 しかし、歳と共に気付いたことは、保つだけでは充分ではない、多くの場合は変える必要がある、ということです。新しい状況には新しい答えを探すこと。対話と互いの助け合いをしながら。本や勉強だけでは充分でない。予め用意された答えはないのです。「歩きながら道はできる」ということを。

神の冒険者:聖人と聖女たち
 人生の時を重ねるにつれ、教会の典礼で祝っている聖人と聖女たちに、イエスの福音がよく受肉していることに気付くようになりました。ですから、ミサの時に、その日の福音書をわたくしの言葉でコメントするより、彼らが、自分たちの共同体の困難や、歴史的な状況の中、どのようにイエスの福音を生きたかというエピソードを紹介することが良いと思うようになりました。皆が様々な形で、タラントンの例え話を実現したのです。ですからカトリック教会では、すべての大陸と人類の歴史のすべての時が、イエスの真の弟子としての聖人と聖女たちでいっぱいです。

タラントンのたとえ話をイデオロギー的に利用することに、「注意」
 しかし残念ながら、多くの人とグループは、このたとえ話を利用しています。つまり、生産と利益を基準とする資本主義を正当化しています。そして、貧しい人や開発途上国の人たちのことを、力と経済的創造性の不足、計画性や組織力がないと言って、悪者扱いし、非難するのです。

 そのような資本主義者たちにとって、神の摂理などはなく、すべては人間の力で解決できる、将来の人類の問題はお金で解決できると考えているのです。神の名を口にするけれど、神を信じることも、宗教の必要性も感じません。唯一、大事なのは経済だけ、世界を支配する力は金によって得られる、そう考えて経済的グローバリゼーションを追い求めます。彼らは、それが人類の救いであると考えるのです。

 キリスト者として経済の価値を否定しているわけではありません。しかし、金持ちのグループだけがそれを独占するのではなく、経済には連帯性がなければなりません。
 ルカ福音書の中にはイエス様の恐ろしい言葉があります。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカ6・24−25)

祈り
 私たちが不妊の保守主義に錨を下ろさず、新しい信仰の生き方、より現実的で福音的な生き方に飛び込んでいけますように。祈りましょう。

・私たちの生活と計画の中で、隣人、特に最も助けを必要としている人を、常に優先することができますように。
・主よ、神の国の職人になれますように。私たちの仕事と、あなたが私たちにくださった才能を役立てることができますように。私たちを、あなたが望んでいる神の国の建設の職人にしてください。

常にあなたに仕え、常に喜ぶことができますように。なぜなら、あなたと兄弟に仕えることで、私たちは本当の喜びに満たされるからです。私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン。