カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第16主日 マタイ13・24-43

2020.12.19 (日)
 「毒麦のたとえ話」は、マタイ福音書では「種まきのたとえ話」の後、「からし種のたとえ話」の前に置かれています。

わたくしの記憶に残っている絵  
 小さい時に見た白黒の絵の記憶。それは夜の間、蒔いた種を守る人が畑の淵で深い眠りに落ちている時に、首に袋を掛けている人が現れ、麦を蒔いたばかりの土地に毒麦をばら撒いていく絵でした。その絵にマタイの13章25節の言葉が書かれていました。この聖書の箇所は「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」でした。

いつ、麦の中にある毒麦を知ったか:アルゼンチンのマヌーチョ村(Manucho)
 わたくしが初めて子どもたちの初聖体の準備をしたのは、サレジオの修練者だった時です。たった19歳でした。修練院にはアルゼンチンからとパラグアイからの修練生がいました。それは250ヘクタール以上の広い畑の中にあり、そこに100頭以上の牛がいて、それらは皆乳牛で、白黒のホルスタインでした。広い土地に、麦、トウモロコシ、ひまわりを季節ごとに植えていました。初聖体の子どもたちの準備をしている時に、ちょうどこの麦と毒麦の話の日に当たりました。ミサを司式していた修練長が福音朗読の後、農家の子どもたちに、イエス様が話している毒麦を知っていますかと聞きました。多くの子どもたちは、毒麦が何であるか分からないような仕草をしていました。すると修練長は自分が描いた絵を見せました。そこに本当の麦と偽の麦の違いが示されていました。すると子どもたちは嬉しそうに、その時やっとイエス様が話されていることが分かった様子でした。毒麦は毎年、麦の間に現れていた偽の麦だということが。しかし、多くの子どもたちが麦畑には偽の黒い麦はあまり出て来ないと言っていました。これは1975年のことでした。修練長の説明のおかげで、私もイエス様がおっしゃった毒麦は偽りの麦だと初めてわかりました。(日本語では毒麦と言います。)

さいたま教区の美しい麦畑:館林
 館林の周辺ではたくさんの麦畑が見られます。最初はすべて緑ですが、やがて穂は黄色くなり収穫の時を迎えます。7月の麦の収穫の後、そこは田んぼに変わっています。車で麦畑の横を通っている時、このたとえ話を思い出し、イエス様だったら今、どのように話されるのかと考えました。もしかしたら、何か説明を加えているのかも。そして最後に、麦畑を前にして自分自身にどういう響きがあるかを問いかけてみました。最初の印象として、偽りの麦を確認することはできませんでした。しかし他の雑草や小さな草はありました。館林には種を蒔いた畑に来て、そこに偽りの麦を蒔く敵はいないでしょう。

 マタイ福音書にはこのたとえ話をイエスがなさる前に、小さなカラシ種のたとえ話があります。この種は小さいけれど、芽生えて成長すると大きな木になり、鳥がそこに巣を作るほどになります(マタイ13・31-32)。そして一人の女性が小麦粉にパン種を入れて発酵させる話があります(マタイ13・33)。

 マタイによる福音を読むと、弟子たちや人々はイエス様が何を言おうとしたかを理解できなかったことがわかります。もう一度、マタイ13章36–43節を読んでみましょう。イエス様からの説明があります。私は二つの側面に目を向けたいと思います。

良い麦の姿勢とは
 湖のほとりで話を聞いている農夫たちに、毒麦を蒔く人たちが誰かという説明はそれほど必要ではありませんでした。神の国の敵のことです。ファリサイ派の人々や神殿のリーダーはイエスが安息日に病人を癒すことに反対していました(マタイ12・9−14)。同じように、宗教的に疎外されて、律法を知らない貧しい人たちを守るのは無理だと判断したリーダーこそが、毒麦を蒔く人だと農夫たちには解っていたからです。
 きっと、こういう優しい人たち、神の国の呼びかけに最初に回心した人たちが、自分の中にも毒麦があることに気づき、イエスの力によって人間全体が癒されている体験をしたのでしょう。
 麦と毒麦が共存する、一緒に成長することは、イエスが望んでいる新しい社会についての提案の表れです。救いの歴史には悪の現実が伴っているという確信。人類を分けること、つまり良い人を救い悪い人を罪に定めることは修復できない間違いであり、歴史の中で今日まで続いています。

毒麦の説明(偽りの麦)
 たとえ話の説明は様々な考えを可能にします。福音史家は、恐らく、そのようなことも予想していたかもしれません。まず、忍耐を持つようにとの勧めがあります。どのグループや宗教団体も、自分たちは他のグループの人よりも選ばれていると信じ、そう宣言します。他のグループを悪い雑草として決めつけるのです。
 教会は長い歴史の中で、自分たちが優位であるという考えにしばしば陥りました。他の宗教をダメと言い、責める・・・他の宗教、キリスト教と名乗っている他のグループを。そして、同じカトリックの人に向けて、組織として、そして神学的に正しいと決めていることに違いがある人を責めてきました。
 そして、たとえ話の説明は、特に終末論的な裁きを強調しています。そこでは、世の終わりに最高の裁判官が現れ、御国の真の市民と悪の市民、すなわち毒麦である悪者の子らを分ける(38節)と、あります。
 分ける基準はその後、国々の審判(マタイ25・31−46)に示されています。それは貧しい人と困っている人が選ばれると。自分の人生でこの福音の呼びかけを実現する人は、直接教会組織に属していなくても、御国の良い種と見なされます。

  今、私たちは神の忍耐の時に置かれています。つまり、神のいつくしみの中で、私たちが善い麦の姿勢を持って、全ての人々と共に暮らせるようにいたしましょう。