カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第29主日 マタイ 22・15-21

2020.12.18 (日)
今日のミサで読まれた聖書の箇所は、教皇フランシスコの新しい回勅、”Fratelli tutti”(兄弟姉妹の皆さん)と繋がっています。教皇様はこの7年の間、人類が向き合っていかなければならない緊急性のある課題について、何度も取り上げられ深めてこられました。

教皇様の行動と語りによって、私たち自身の話し方や神様との接し方が変わったのではないかと思います。自然と、そして人との接し方、様々なテーマについての理解も変わったのではないでしょうか。疑いなく、イエス様、そして、その福音にさらに近付いたのではないかと思います。前回の回勅「ラウダト・シ」が5年前に発表された時のことを思い出します。

そして今、新しい回勅を読む時、私たちは特にカトリック信者として、感じ方、考え方、行動で、教皇フランシスコと更に一致し、教皇様を人類の霊的指導者として受け入れることになるのではと思います。戦争に「ノー!」、核兵器を作ること、それを使うことに「ノー!」、死刑に対して「ノー!」、この3つの「ノー」の確信を持つ人が世界中に増えていくのではないかと思うのです。みなさんも教皇様が”Fratelli tutti”の回勅の中で勧めておられることに、共感することが多くあるのではないかと思います。

昨年、来日された時のメッセージの中にも強調されていた、すべての命を守るために「イエス!」、平和を築くための連帯に「イエス!」。閉じ込める壁を造るのではなく、グローバルに行動しなければならないと考えます。教皇フランシスコは、新しい回勅の中で、イエスの福音こそが、現代社会の混迷する現実と、それに対する解決の道であると話され、私たちもそれを確信しています。きっと、これが唯一の解決への道ではないでしょうか。善いサマリア人になることが、すべての時代においてのキリスト者の使命であることを忘れてはいけません。
では、これから第一朗読と、今日の福音について短くコメントします。

第一朗読:イザヤ書45・1、4−6(第二イザヤ)
 イザヤのこの箇所は「慰め」と言われています。なぜなら、預言者は厳しいことを言い、そして罰で脅しました。それは神の民が悪を行なっていたから。こういう状況にあっても、イザヤは民を元気づけ、神は見捨てないと説きました。イスラエルはバビロンに追放されていたにも拘わらず、この地上で、民として存在し、やがて解放の時がくるであろうと。

 イザヤが宣言する慰めのメッセージが何であったかを見ましょう。ペルシャの王キュロスに神は語ります(紀元前575−530)。この人は神の民に属していません、神を知りません。それなのに、神は彼に使命を委ねます。ここにありがたい驚きがあります。神を知らないことは、神に呼ばれて使命を与えられることの妨げではない。キュロスに与えられた使命はバビロン(現在のイラク)に追放されていた時、民が切に願っていた慰めのメッセージを伝えることでした。このペルシャの王の介入のおかげで、バビロンの囚われの状態からの解放が始まりました。王になって最初の年、神の促しによってエルサレムの神殿再建の法令を出しました(エズラ記4・1−6)。

 旧約聖書には、ユダヤ人でない人が神の道具になれることが書かれています。私たちもそれを
知ることは大切で、それは今日もあることです。「時々、信じないという人たちが、信じる人より神の望みを生きることができる」(Fratelli tutti 74、82)。

マタイによる福音(マタイ22・15−21):神のものは神に返せ
 教会の歴史では、マタイ福音書の中で一番多く触れられている箇所です。そして同時に、この箇所は、教理的、霊的な解釈がされています。ユダヤ教からキリスト教徒となった人たちが最初にまとめたキリスト教の要理でもあります。それは、紀元前66年から74年にかけての戦争によって、エルサレムの神殿が破壊された後のことで、このようなまとめの作業があったのです。

 今日読まれたこの箇所、イエスとファリサイ派(他のグループ)との具体的な対立の内容を記しています。税金について、死者の復活、最も重要な掟、ダビデの子について、など。これらの論争の裏には、イエスとローマの法の対決があり、そこには皇帝を神とする社会的背景が存在していました。

 あの時代のユダヤ人は税金についてとても敏感でした。初期のキリスト教共同体も、そのことで苦しんでいました。ローマ帝国の支配下、マタイ福音書が作成されました。その数世紀前、イスラエルの民は部族の連合のようなものを夢見ていました。社会が平等に構成され、神が唯一の主であって、その神がエジプトからの解放の神であると。しかし今、イスラエルは王国になったことで、違う道を生きています。それは組織を支えるために、貧しい人から搾取する。最も貧しい人が財政政策の一番の被害者でした。なぜなら、税金の計算、評価は、実際に働く農民に直接かかっていたからです。

 税金の裏側にいる皇帝の姿に目を留めましょう。皇帝は政治的だけではなく、宗教的な側面も持っていました。エジプトのファラオのように。ローマ帝国での神々は社会生活の組織の一部でした。ですから、皇帝を神として受け入れなければならなかったのです。そのような意味で、ローマは神聖な社会でしたが、キリスト教共同体は、神との関係を違った形で受け入れていました。イエスの神を理解し、選んでいたので、皇帝が神とされることは認めることできなかった。そこで公認された宗教と対立しました。もうひとつ、彼らは他のあり方を選んでいます。それは小さな共同体で兄弟姉妹として生きる、という提案でした。このような難しい環境の中で、キリスト教共同体ははじめの弟子たちがイエスと生きた体験を探し、その結果、聖書のこの箇所が、よく知られている言い回しになったのです(マタイ22・21)

 したがって共同体はスタートの時点で、皇帝は神ではないという意識がありました。なぜなら神は愛、正義、平等…の神。 これらの価値観はどの時代の皇帝にもなかったものです。

 現代社会では、自分を神として主張する皇帝はいません。しかし、多くの社会的、政治的組織の中には、宗教的である(神聖)と主張する組織があります。軍の力と自由な経済に支えられて、そこでは金持ちはさらに金持ちになり、貧しい人はもっと貧しくなる。これは貧しい人から搾取するシステムです。

 マタイの福音書は、教会的刷新の力によって、イエスの提案に最も近い教会を実現するために、疲れを覚えず働くよう促しています。 人と兄弟同士の関係にもっと光を当て、それを中心にして、決まりや組織に縛られないように。それが、正義と小さい者を守ることになり、組織をその上に置いてはいけないと。

祈り
新型コロナウイルスのパンデミックで苦しんでいるすべての人々、特に仕事を失った人たち、あるいは仕事の時間が減らされた人たち、そして、生活に必要なものが手に入らなくなった人たち、こういう人たちが、すべての人の助け合いと寛大さによって必要な援助を受け、ふさわしい仕事に就き、それに伴う報酬を受けられますように。祈りましょう。
・ 神よ、あなたはキュロス王の存在を良い助けとし、善を行う恵みの存在としてイスラエルの民が認められるようになさいました。自分の民族性や宗教の狭い限界を超えて、キュロス王を恵みとして認められるようにした神よ、私たちにも、広くて開かれた視野を下さい。それによって、他の宗教や、無宗教の人々の中に多くのキュロスを見いだせますように。そのような人たちの中に、私たちがあなたの寛大な現存を感じることができますように。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。