カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2020年  次の年→ 

年間第22主日 マタイ 16・21-27

2020.12.30 (日)
イエスとエレミヤ
主よ、あなたがわたしを惑わし
私は惑わされて あなたに捕らえられました
(エレミヤ 20・7−9)
  わたしについて来たい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい
(マタイ 16・21−27)


 今日の典礼は、エレミヤの預言者としての力に伴う痛みと、イエス様に従おうとする人たちの預言的な務めから来る、痛ましい結果にスポットを当てています。預言者にしてもイエスにしても、敵対する力に向き合わなければならないことに注目しています。始めに、預言者エレミヤが活動した歴史的な背景を紹介します。その後、今日の3つの朗読箇所についての黙想、最後にいくつかのお祈りで終わります。

預言者エレミヤ:歴史的背景
 バビロンへの追放、あるいは囚われた体験がユダヤ人(イスラエルの民)の生活に大きく影響しました。それはとても痛ましい時期でした。契約の神に対する信仰を、真剣に考え直したいという要求がありました。神から選ばれて、全ての民に救いを運ぶ使命、神はそのためにイスラエルの民を選んだのに、どうしてこういうことが起きるのか。これは、神への信仰にとって、大きな危機でした。
 エレミヤが活動し始めた歴史的背景には、バビロンの力が中東に広がっていったことがあります。特にネブカドレツァルがカルケミシュの戦いで、ネコ・ファラオの軍に打ち勝った後、バビロンは遂には地域全体の主権を手に入れたのです。
 神のインスピレーションによって、エレミヤは、イスラエル人たちにバビロンの王に従うように勧めていました。これによって預言者は侮辱され、裏切り者として、そしてバビロンのスパイとしてエルサレムの牢獄に閉じ込められました。(エレミヤ 37・14−21)
 紀元前587年、ネブカドレツァルはユダヤ人に打ち勝ち、エルサレムとその神殿を破壊し、主だった人々を捕虜として連れて行きました。数千人を奴隷とし、王の子供たちを王の前で殺害しました。そして、王は目を抉り出され、バビロンの捕虜として連れて行かれました。その侵入によって、バビロン人はエルサレムの神殿を破壊し、解放されたエレミヤの友人のゲダルヤが総督になりました。しかし、後に総督は殺害され、イスラエル人たちはエレミヤに対して自分たちと共にエジプトへ行くように強要し、その後エレミヤは帰天しました。
 預言者エレミヤは、紀元前650年から585年にバビロンとエジプトで生きたへブライ人の預言者です。祭司の家族に生まれ、ユダで預言しました。エゼキエルと同じ時代の人であり、ダニエルより前の人です。預言者エレミヤは過去の人として、理解されず、苦しみました。迫害という点において、一番イエスに似た人であるとされています。死後に、イスラエルの民はこの預言者が偉大な聖人であるということを認めました。そして、全ての預言が実現した時、神の名によってそれらが成されたことに気付きました。残念ながら、気付いた時には遅かったのですが。

第一朗読:エレミヤの告白(エレミヤ 20・7−9)
 ここに、神に仕えているエレミヤの新しい叫びがあります。神から命令されたものは全て行い、言われたことは言い、伝えました。そして、結果としては、聞く人からは頑なさと憎しみを受けました。しかし、エレミヤは、み言葉と使命にもっと強くしがみついていたことを認めています。これは預言者が騙されていたともとれます。なぜなら、彼はその先に何があるかは知らず、神も彼にそれを教えていなかったのですから。
 しかし、全ての上に神の恵みと慈しみがある。ですから、苦悩の中で、彼は、希望と信仰の叫びをあげています(エレミヤ 11章〜13章)。預言者の気持ちは極めて痛ましく、それは召命の歴史との対比があります(エレミヤ 1・5)。召命の歴史には楽観的なアクセントがあります。胎内にいる時からの選び出し。その代わりに、この箇所では、その生まれた日を呪うという。敗北感と喪失感、その人生を無意味なものと感じます。

第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙
第二朗読は、信仰においての兄弟として語られるのではなく、使徒としての権威を持って話されます。身体を神への永久の捧げ物とするように勧めています。真の神に対する生贄は外的な儀式ではなく、正しい生活から来るのですと。特に身体は内的生活の器である。神に対する賛美と感謝の歌でなければなりません。パウロにとっての回心とは、神の霊によって全面的に変えられた人生、メンタリティ、価値観、生活スタイルの変化のことです。このように生きる人だけが、神の望みを探し、見つけて実行する判断の基準を持つことができます。

福音朗読:マタイによる福音(マタイ 16・21-27)
マタイ福音書の中で、イエスがご自分の弟子たちに現す復活の道は、十字架の痛ましい経験と親密につながっています。核になるものは受難の第一の予告。しかし弟子たちは、ペトロに表現されているように、この現実を理解できませんでした。彼らはイエスの栄光のメシアニズムに確信を持っていました。それはあの時代のユダヤ人が、メシアについて持っていた期待でした。しかしイエスは、この考えを強く否定します。なぜなら、御父の望みは、ペトロや弟子たちの期待と噛み合わない。ですからペトロは、イエスの前ではサタンの道具として、イエスの使命を妨げていることになるのです。

私たちに対する問いかけ: 
洗礼において受けた預言的側面を、どのように生きていますか。
預言者としてどのように生きていますか。
1.第一朗読では、エレミヤは重荷を下ろすために神の前で愚痴を言います。エレミヤはここで感じているものを訴える。それは神がエレミヤに訴えるよう願っていること。同時代の人たちはエレミヤに対してうんざりしていて、「いい加減にしなさい!」と言いたい。エレミヤはこの状況に疲れていて、普通の生活に憧れています。プライベートな生活を送ること、預言者としての勤めの複雑さから逃げることを望んでいます。
『質問』これはエレミアだけの状況でしょうか。それとも全ての預言者にとって、あたりまえに起きることでしょうか。なぜでしょうか?
2.福音書では、悪い前兆を恐れずに、歩むべき道に立ち向かおうとするイエスの勇気が強調されています。イエスがこのように行動し、宣教していくと、そこには危険が伴うことがペトロには解っていました。そして、彼ら自身も、この師の弟子として従っていけば同じ危険に陥るということも理解していました。では、私たちは、どういう状況や挑戦に対して、イエスのように確固たる決断をしなければならないのでしょうか。

祈り
 主に祈りましょう。
・ 聖霊が教会を導き、全ての民に良い知らせをもたらすことができますように。貧しい人や阻害されている人たちの人権を守り、迫害されている全ての共同体や人々を支えてくださいますように。その使命を私たちが果たせるように、聖霊が導いてくださいますように。
・ 世界の様々な宗教が、他の宗教の存在意義について考え、平和な世界を築き保つように互いに近づき、協力し合うことができますように。

  私たちの父である神よ、あなたに全面的な信頼をおくように、あなたの愛の力で満たしてください。私たちが御国の良い知らせを、勇気を持って世界に証しすることができますように。特に、新型コロナウイルスのパンデミックの中で、あなたの子の弟子として、言葉だけでなく、行いを持って使命を果たすことができますように。
  私たちの主イエスキリストによって、アーメン。