カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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三位一体の主日 ヨハネ 3・16-18

2020.12.7 (日)
6月の典礼の祝い
 毎年、「聖霊降臨の主日」の後に「三位一体の主日」をお祝いし、翌週の「キリストの聖体」のお祝いの直後の金曜日に「イエスのみこころ」のお祝いがあります。

6月13日は日光教会の保護の聖人であるパドアの聖アントニオの記念日です。昨年はこのお祝いのために6月最後の日曜日を選びました。土曜日の夜は100人以上の人が参加し、お祝いは長い徹夜の祈りと神のみ言葉から始まりました。参加者の半分は、さいたま教区の様々なところからやってきた青年たちで、司教との夕食と対話がありました。翌日は大雨の中で国際ミサになりました。200人以上の人が参加し、東京から来ている人もいました。聖アントニオが呼びかけてくださったおかげで多くの人が集い、お互いにもっと知り合うことができました。もし、他の小教区でも青年たちに呼びかけて保護の聖人のお祝いをすれば、司教のモットー、「キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように」を実現することができるのではないかと思います。

 6月には「洗礼者ヨハネの誕生」のお祝いもあります。それは24日です。そして、教会の二つの大きな柱、聖ペテロと聖パウロのお祝い、伝統的にこの日は教皇様の日となっています。ブラジルのクリスチャンはこの聖人たちをお祝いする月を「6月の祭り(フェスタ・ジュ二ーナ」と呼んでいます。

 多くの人々が教区を越えて、信仰生活を深めるために、聖人たちのゆかりの地への巡礼をしています。彼らはお祝いの招待を待っています。そのような形でイエス様とカトリック信仰を生きているのです。

今日の三つの朗読についての黙想
 聖書は、神は誰であるかを一言で掲示しています(ヨハネの第一の手紙4・8)。
今日の聖書の箇所から神の姿を知り、神の姿がそこにあることを推し量ることが出来ます。

あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた神(出エジプト記 34・6)
この箇所は、32金の雄牛への偶像崇拝の場面の直後にあります。これによって、コントラストがはっきりします。民の不忠実と神の忠実。出エジプトの神は、ご自分の民の弾圧からの解放の歴史に同伴する神なのです。

神様がイスラエルの歴史の中で行ったことは旧約聖書に記されていて、福音書にはイエス様を通して行われた神様の姿が描かれています。ですから歴史の中にいる神と波長を合わせることによって、自分自身と出会い、共に歩んでいる神に一致しながら宗教が形になっていったと言えるでしょう。歴史の中にいる神と共に、ユダヤ教が生まれ、成長していったのです。これは、イスラエルの信仰と教会の信仰宣言、公式テキストでは、歴史的信条として定義されています。これらの信条は確かに歴史の出来事です。イスラエルの民が歴史の中で神の業として信じたものです。ですから、もし歴史を無視すると、神という概念が変わり、歴史と関係のない神になります。それは聖書の神ではなく、キリスト者の神でもない。同じように私たちも、自分の人生をこのように読まなければなりません。神の御手は私たちを導いているのです。私たちのあやまちや罪、教会離れにも拘らず、神が今日まで共にいてくださっていること認識します。自分が一番困難の中にあった時を振り返りながら、神が私を見捨てなかった、いつも私の自由を尊重してくださったことに気づくのです。

 パウロのコリントの教会への手紙からは短い箇所を読みました。三位一体の概念に似ているようなものがあります。この表現が後に形になったということを私たちは知っています。パウロの直感は信者としてこの世の中で進むべき道、生き方を導いて下さいます。パウロは祈るために集っている人たちにこのように挨拶しました。「主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように(2コリント13・13)」

 今日の福音はヨハネからのものです。それは聖書文学の頂点の一つです。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された(ヨハネ3・16)。」ヨハネが主張している三位一体の神がどのよう神であるかと言うと、私たちが告白して言う「父と子と聖霊」なのです。

教皇フランシスコのモットー
 教皇フランシスコは就任された当初から、神はいつくしみであることを変わらず主張しています。教皇として選ばれた後の2013年3月14日、1991年にブエノスアイレスで司教に叙階された時に選んだモットーをご自分の教皇としての使命のモットーとされました。モットーはラテン語で書かれています。”Miserando atque eligendo”(いつくしまれ、そして、選ばれた)。これはイエスがマタイを呼ばれた時の場面で見ることができます。「イエスはそこを発ち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた(マタイ 9・9)。教皇様が指摘しているのは、主が愛をもってマタイをご覧になり、ご自分の弟子のひとりとして選ばれたということです。

 2015年12月8日、ちょうどわたくしの誕生日の日に、聖ペテロ広場にミサのために数人の仲間たちと一緒にいました。その日は小雨でした。更に、12日の午後、グァダルーペの聖母のお祝いの日にもそこにいました。その後、聖ぺテロ広場の入り口に飾られているクリスマスの大きな馬小屋を見ました。わたくしの目に留まったのは馬小屋に合った同じサイズの家でした。その中に、良いサマリア人と泥棒によって傷つけられ横たわっている人の像がありました。わたくしは理解しました。教皇様がそのクリスマスに伝えようとしたメッセージを。両親であるヨゼフとマリアに守られている幼子イエスを、羊飼いや博士たちが礼拝していたように、私たちが本当にイエス様を礼拝したければ、良いサマリア人の姿勢と心を持たなければならないことを。良いサマリア人にならなければ私たちの心にクリスマスは訪れない、神の誕生は本当には起きないであろうと判ったのでした。

 このように教皇フランシスコがいつくしみの年(2015年12月8日から、2016年11月20日まで)の始めにおっしゃりたかったことはすぐに理解できました。そして、教皇として心に留めていらっしゃり、いつも仕草と言葉にこめられているのは、いつくしみに満ちた神がその中におられるということです。

 毎年、三位一体の日曜日を迎える時、神は愛であることを思い起こしましょう。弱くて罪びとである私たちすべてに対していつくしみ深く、危機の中でも絶対に私たちを見捨てない、私たちが前に進めるようにいつも道を切り開いてくださる神を思い起こしましょう。

 一緒に十字を切りながら終わりましょう:父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。