カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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待降節第1主日 マルコ 4・18-22

2020.12.29 (日)
「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、
あなたがたには分からないからである」(マルコ13・33-37)

第一朗読の裏にある歴史(イザヤ63と64)
エズラ記によると(エズラ記1章3、4節)、バビロンからエルサレムに戻ったグループは約15万人でした。しかし、歴史家によると、最初の帰国と、エズラ、ネヘミアには3世代の隔たりがあります。
この期間、ユダヤ人たちはバビロンにいました。ペルシャ文化が繁栄していたことは遺跡からも窺われます。エステル記には、公邸の贅沢さと豪華さが記されています。
しかし、ユダヤ人たちがバビロンに追放されていた期間の生活は、あまり知られていません(紀元前586〜537年、50〜70年間)。人々の多くはそこに留まることを選びました。そこの生活に慣れていたので(結婚したり、家を建てたり)、彼らはバビロンと他のカルデア帝国のある地域に留まったのです。
更に、その50年前にユダヤからその地に来た人たちの大部分は、すでに死んでいました。ですから、彼らの子孫は、親の土地への郷愁をそれほど感じていませんでした。
しかし、ある人たちは、アイデンティティーの再構築、そして最初は仲間たちからの支援を受けなかったのですが、組織、機関とユダヤ国民としての生活を再び取り戻す企てに着手しました。多くの人は、そのような考えは愚かで必要ないと思っていました。「なぜエルサレムへ戻るのか、私たちはバビロンの新しい生活に適応しているのに」と。
ですから、ユダヤの共同体は、大きな課題に直面したのです。国としての基礎を立て直す、エルサレムの街と神殿の再建、それは簡単な作業ではありません。預言者たちは常に、破壊へと繋がる過ちを認めるように、問いかけました。しかし、バビロンにいる大部分の人たちは、神の仲介者である預言者を無視していました。

福音書(マルコ13・33−37:目覚めていなさい、家の主人の訪れのうちに)
 イエス様は待降節の第一の日曜日の福音で、注意しているようにと勧めています。現代社会で、キリスト教の教えが余計なものであると思っている人たちに対して、注意するようにと。教会は、イエスが誰であるかを宣言するように願っています。必要であると、公に福音のメッセージを伝える。すべての人に届くように。 福音書が人生の歩みを照らす、本当の灯火となるように。疑いなく、イエスと共にいる人は、それを生きるための十分な力と喜びを得るでしょう。

現代社会において、待降節はどういう意味を持っているのでしょうか。
 毎年、降誕祭のお祝いの前に待降節の典礼的な時があります。12月は年の最後の月として神に感謝する時、自分のまわりの大事な人たちにも感謝する時です。そして、キリスト者は、幼な子イエスの誕生をお祝いして、新しい年を迎えます。
しかし、今年は特別になるでしょう。私たちは長い間コロナウイルスと共に生きてきました。人間の力と知恵によって、このパンデミックの原因となったウイルスをコントロール出来るようになるのか、という不安の中で。それは分かりません。今はまだ、このウイルスの「その後の時」にいるとは言えませんから。
言えることは、私たちは待降節の中にいるということ。この長く続く困難の中で、新しいものを待っていること。教皇フランシスコは、復活されたイエスの現存への大きな信仰を分かち合ってくださいました。この危機の中での教皇様のメッセージは一つの本にまとめられています。その名は「苦難につよい(Fuertes en la tribulacion)」。 (インターネット上、様々な言語で手に入れることができます。)

“新しい”待降節に、私たちみんなが関わっています。:新しい日の出の希望
 新型コロナウイルスがもたらした、社会的、宗教的、教育的、経済的な危機を乗り越えるための戦いに私たちみんなが関与しています。数えきれない人たちがコロナウイルスに打ち勝つために戦っています。何と多くの人が、感染した人の世話をし、あるいは亡くなった人を葬っていることでしょう。助け合いの戦いは、より兄弟的関係を築いています。宗教や人種の壁を乗り越えながら。なぜなら、みんな弱く、傷つきやすいことを実感しているからです。みんな、
神に創られた人間ですから。
教皇フランシスコは3つ目の回勅”Fratelli tutti”で、次のことを強調しています。すべての人々、男の人にも女の人にも呼び掛けています。もっと人間的な社会、もっと兄弟的、そして助け合いの社会を築くことが出来るようになろうと。
このパンデミックは、今、地球に住んでいるすべての人の中に神の新たな現存を発見する好機なのです。宗教の違いを超えた動きで、この共通の挑戦を受け止めなければなりません。挑戦とは、すべての被造物をみんなで守ること。私たちの住まいである地球はもちろんのこと、宇宙も含めて。なぜなら、私たちは、時の経過とともにますます宇宙に深く繰り込まれつつあるからです。

降誕祭は私たちと共にいる神の誕生のお祝いです。
私たちが、この降誕祭と新しい年に待ち望んでいる神は、どのような神なのでしょうか。
 私たちは神に対するイメージを時間をかけて持つようになります。その姿は年月を経て生まれ、特に、苦しみや様々な危機に直面することによって育っていきます。
しかし、忘れてはいけないことがあります。多くのユダヤ人がメシアを、神が送る救い主を待っていました。しかし、イエスを神からの贈り物として認めませんでした。神は、イエスを通して現れた神は、ご自身の現存によって私たちをいつも驚かせます。私たちや他の人々の中に、神が新たに現れることに気づいた時、そこに神の本当の誕生があり、それこそが降誕祭です。
今から迎える降誕祭では、私たちの家族、そして周りにいる兄弟姉妹の中に、新たに誕生する神に気づくことができるよう目を覚ましていましょう。

祈り:いくつかの意向を提案しましょう。
 ・降誕祭を準備しているすべての人たちのために祈りましょう。私たちの心と生活に、変化があるよう準備できますように。
・労働者と農民、移住者、第三世界の人々のために祈りましょう。彼らが裕福で力ある国の利益の犠牲者になりませんように。
・私たち自身のために祈りましょう。このパンデミックの時、「目覚めていなさい」という呼びかけに応えて、困っている人を具体的に助ける術を探し求めることができますように。

共同体の祈りとして
・私たちの父である神よ、新しい待降節の始まりにあたり、私たちの信仰を燃え立たせ、希望を強め、愛を固めてください。私たちが信仰と希望と愛をもって、子であるイエス・キリストの誕生を、真の喜びで祝うことができますように。アーメン。