カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2020年  次の年→ 

待降節第3主日 ヨハネ 1・6-8、19-28

2020.12.13 (日)
親愛なる兄弟姉妹のみなさん、
 この待降節の第三日曜日は、Gaudete(ガウデーテ)の日曜日と言われています。「喜んでいなさい」という意味です。ミサの入祭唱はパウロのフィリピへの手紙から採られています。「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。」その後に、理由が書かれています。「主は近づいておられる」(フィリピ4・4−5)。これが私たちの喜びの理由です。主が近づいているとはどういう意味でしょうか。この、神との親近感、私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。

神との親近感を喜ぶ
 聖パウロは、フィリピのキリスト者に向けて手紙を書く時、キリストの再臨のことを考えています。そして、喜ぶように、と招いています。なぜなら、その訪れは確かであるから、と。しかし、同じ使徒が、テサロニケの手紙の中では、主の訪れのはっきりした時は誰も知ることができないと言っています(�@テサロニケ5・1−2)。すぐ来られる、というアラームのような考えを持っていた人たちに対して、注意するように、と指摘しています(�Aテサロニケ2・1−2)。
 このように、教会は聖霊に照らされて、神の近づきを更によく理解することが出来るようになりました。それは、場所や時のことではなく、愛のこと。神の愛が私たちに近づいていることなのです。
 クリスマスにはこの真理、大切な教えを思い起こします。そして、厩(うまや)の前でキリスト教的な喜びを味わい、生まれたばかりのイエスに、私たちに愛を持って近づく神の御顔を見ることができます。

Gaudeteの日曜日:ピンクの日
 典礼暦年において、2つの日曜日のみ、司式司祭はピンクのカズラとストラを身に着けます。最初は待降節の第三の日曜日、Gaudeteの日曜日と言われている日に、もう一つは四旬節の第四のLaetareの日曜日に着けます。入祭のとき、「エルサレムと共に喜び祝い」(イザヤ書66・10)を唱えます。カズラの色は紫の代わりにピンクを使うことができます。それは白との間のもの、喜びのシンボルです。白は喜び、紫は静けさに入って行き準備する色。祭壇の前にこの色の布をかけることができます。それはフロンタール、あるいはアンティぺンディオと言います。朗読台の前、カリスを包む布、コルポラーレの袋、紐も(その日の典礼の色でもよいのですが)。もし、助祭がいれば、ピンクのダマルチカを使うこともあります。しかし、最近はピンクのカズラを使うことは義務ではなくなりました。ピンクでなければ、他の待降節の四つの日曜日のように、紫を用いることになっています。
 この日曜日の聖書朗読は、喜びへの招きとしての特徴を持っています。そして、花と楽器に関しては、待降節の教会の規則は適応しません。もし今、新型コロナウイルスの流行がなければ、この日に灯される3つ目のろうそくはピンク色であることが勧められています。そして、待降節の他の日曜日よりも花がたくさんあり、その色が目立つとよいでしょう。しかし、その数と種類は、降誕祭の夜半と日中のミサと降誕節よりは少なくなるように。

イエスを待ちながら生きる(典礼のテキスト)
 待降節の典礼の聖書箇所は、イエスの訪れを生きるように、そして、それを新たにするよう招いています。日常生活の中でキリスト者は、開かれた姿勢と、奉仕するイエスとの出会いを待ち望む心構えを保ちながら、降誕祭の神秘の喜びに向けて準備します。社会や外的な雰囲気は商業的なメッセージを発していますが、新型コロナウイルスの影響によってそのトーンが低くなっています。
 キリスト者は、そのような社会の光や食べ物によって注意を逸らされるのではなく、それぞれの物事に正しい位置付けをし、内的な目線をキリストに向けながら、待降節を生きるように招かれています。目覚めて祈り続けるなら、私たちの目は、本当の世の光として私たちの闇を照らしに来てくださるイエスに気付くことができるのです。

本当の喜び
 Gaudeteの日曜日の典礼は、具体的に私たちを喜びに招いています。悲しく目覚めているのではなく、喜びを持つようにと。ですから典礼はパウロの手紙を選んでいます。「主において常に喜びなさい。」(フィリピの信徒への手紙4・4)
 しかし、本当の喜びは楽しみの実りではないのです。本当の喜びは人生の約束や責任から逃れること、蔑ろにすることとではなく、もっと深いものと関係しているのです。確かに、慌ただしい日常生活では、時には休むこと、リラックスする時を見つけることが大切です。しかし、本当の喜びは神と関係しています。人生の中でキリストに出会った人は、心の中に、誰も、どんな状況も奪うことができない、落ち着きと喜びを実感します。聖アウグスティヌスは、真理、平和、喜びの探究の中で、様々なものを空しく探した後、この真理を理解するようになり、あの有名な言葉「あなたのうちに憩うまでは安らぎを得ません。」(Libro de las Confesiones 11・1)を残してくれたのでした。
 本当の喜びは、通り抜ける心の状態ではなく、努力で得るものでもありません。恵みである生きたイエスのペルソナとの出会いから生まれるのです。私たちの中に聖霊を受け入れて、イエスの居場所を用意すること。私たちの人生を導く、パウロの招きにもあります。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(�@テサロニケ5・23)

最後のメッセージ
 この待降節に、主が私たちの間に来られたという確信を強めましょう。この確信が、慰めと喜びの現存を常に新たにしてくださいますように。
 イエスに信頼をおきましょう。もっと私たちの近くに主がおられることの確信を持ちましょう。私たちの歩みを無原罪のマリアに委ねましょう。マリアの魂は、救い主である神の喜びで満たされました(マリアの讃歌「マニフィカト」を見ましょう)。マリアが、イエスの訪れを喜びのうちに待ち望む私たちの心を導き、その待ち時間が、愛と慈しみの祈りと業でいっぱいになりますように。

祈り:私たちの心を合わせてマリアの讃歌を唱えましょう。
「教会の祈り(聖務日課)」(ルカ1・46-55)
わたしは神をあがめ、
わたしの心は神の救いによろこびおどる。
神は卑しいはしためを顧みられ、
いつの代の人もわたしを幸せな者と呼ぶ。

神はわたしに偉大なわざを行われた。
その名は尊く、
あわれみは代々、神を畏れ敬う人の上に。

神はその力を表し、
思い上がる者を打ち砕き、
権力をふるう者をその座から下ろし、
見捨てられた人を高められる。
飢えに苦しむ人はよいもので満たされ、
おごり暮らす者はむなしくなって帰る。
神はいつくしみを忘れることなく、
しもべイスラエルを助けられた。
わたしたちの祖先、
アブラハムとその子孫に約束されたように。