カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第30主日 マタイ 22・34-40

2020.12.25 (日)
今日の説教では、はじめに出エジプト記について少し話します。その後、この日曜日のメッセージを伝えたいと思います。

旧約聖書の「福音」:出エジプト記
 出エジプトの物語は、地理的に2つの場所が舞台となっています。エジプトとシナイ山。そこで、イスラエルが神の民として生まれた出来事が展開します。すなわち、エジプトからの脱出、紅海を渡ってのエジプトからの脱出とシナイ山での主との契約。これらの出来事はイスラエルの記憶にしっかりと刻まれ、神に対する信仰の土台になりました。ですから、出エジプト記は聖書の中で特別な箇所になっているのです。「旧約の福音」とも呼ばれています。
 ですから、出エジプト記は2つの部分に分けられます。はじめの部分の頂点は、イスラエルの解放を祝うモーセの勝利の歌。紅海を渡り、敵であるエジプトに勝利した主の業をたたえる部分(出15・1−21)。この神の業がこの本に名前を与えました。つまり「出エジプト記」と表されたのです。

 第二部は主とイスラエルのシナイ山での出会いを描く部分です。愛と力を現した後、神はイスラエル人たちと契約を結び、モーセを通して掟を制定されます。この契約によって、イスラエルは「神の民」となるのです。つまり、神から選ばれた民、イスラエルは聖なる民になり、全面的に神に捧げられました(出19・6)。

エジプトにおけるイスラエルの奴隷状態:300〜400年間
 出エジプト記は神の民の出来事でいっぱいですが、近代的な意味での歴史の本ではありません。この本の全ては信仰から生まれた証しです。イスラエルが国としての存在を認められていることは、それが人間の業ではなく、神が創造されたものだからです。ヨセフが亡くなった後、ヘブライ人たちはエジプトに300年間留まったと思われています。イスラエルの民の急増に対してファラオが反応し、彼らを根絶しようとし、彼らを迫害し、虐待しました。このような制圧の中、アブラハムの子孫は主に向かって叫び、主は約束を思い起こし、解放する人を送りました。それがモーセだったのです。モーセは5つの本(モーゼ五書)の中で特別な場所を占めています。私たちに分かっていることは、モーセはこの使命を自分のものとして、大きな困難の中でそれを果たしていく。特に、その困難とは、解放に向かって歩んでいる、同じイスラエル人たちからの反対でした。

どのようにこの最初のテキストを理解するか:第一朗読(出22・20−26)
忘れてはいけない。最も弱く、傷つきやすい人のことを。
 イスラエルの法律は、大きな農民の集団が貧しくならないようにするものでした。亡命と強制的な移動、戦争や詐欺によって、神の民が共存するための土台が脅かされるという矛盾がありました。
契約の内容は、典礼的なきまり、あるいは宗教的な方針だけを強調していたのではなく、社会の最も弱い立場の人たちを守ることも力説していました。寄留者、やもめ、孤児、日雇い労働者と一般的に貧しい人たちのことです。寄留者の多くは戦争のために亡命した人たちでした。強制的に移動させられたのです。イスラエルの地に、自分の手以外は何も持っていきません。やもめと孤児たちは、親類の男の人に頼らなければなりませんでした。それは、土地を法的に独占していた親類の男の言いなりにされるということです。それでも頼らなければならなかった。日雇いの人たちは、地主の気まぐれに左右されていました。本来なら支払われるものをもらえないこともありました。こういう人たちの叫びは、神にとっての心配の種でした。圧迫する者、搾取する者、詐欺師をそのままにはしておけない。罰せずにはいられませんでした。

パウロとイエス様のメッセージの核になる事:隣人愛なしに神の愛はない
 パウロが異邦人に提案するのは、1つの宗教ではなくて、新しい生き方のスタイル。その生き方、神と隣人の関係の土台になるのは識別、無償と、自由である意識です。ヘブライ人たちは数えきれない掟に縛られ(248のきまりと365の禁止事項)、パウロによると、彼らは「よく変わる考え」と「宗教の流行」の奴隷でした。皇帝を神として崇めていた、ローマ帝国の偶像の奴隷として生きていかなければならなかったのです。
 福音書も同じことを指摘しています。神との関係の土台は、隣人愛。イエスにとって、隣人に対する具体的な愛なしでは神の愛はないということを。今、私たちが生きている社会では、ユダヤの民より多くのきまりがあります。私たちの教会を含めて、そこにはたくさんのきまりがあります。そして今、世界には人を利用する国際的な詐欺によって苦しんでいるおびただしい数の貧しい人がいます。圧迫された貧しい人のために、預言者たちが声をあげました。今日の典礼の言葉、私たちを生かそうとするイエスの言葉は、私たちの受け身の姿勢を揺さぶる招きです。この、近代化、文明化されている世界の耐えがたい状況に対して、倫理的な怒りを取り戻す招きと言えます。福音の根本に戻ること。それは最も重要な掟である2つの愛、神に対する愛、隣人に対する愛に立ち返ることに他なりません。

キリスト者に、もう一言::難しい人を愛する
 第一の掟、神を愛することが最も重要な掟です。二番目、隣人を愛することも第一の掟に似ています(マタイ22・34−40)。ヨハネの第1の手紙には、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です(1ヨハネ4・20)。」とあります。もしも二番目の条件を生きていなければ、1つ目は有効ではない、隣人を愛さないで誰も神を愛することはできない、と言うのです。これは明白です。私を侮辱した人を赦すこと、あるいは、家に一人の人を受け入れることは、たとえ助けを必要としていると分かっていてもとても難しいのです。思い出しましょう、聖ヨセフとマリアが宿を探しているときに見つかりませんでした。息子であるイエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました(マタイ2・7)。私たちは誰でも、毎日、死ぬ時まで、回心し続ける必要があるのです。

祈り
信仰者として宣言している全ての人が、神が本当に喜ばれるのは、弱い人や必要としている人から搾取しないことであることを忘れないように、そして、反対に、彼らを助けて、受け入れることを恥ずかしく思わないように祈りましょう。
 全ての人と、私たちの一人一人が、私たちの隣人を具体的に愛さなければ、神を愛することはで
 きない、ということを忘れないように願って、祈りましょう。

祈りましょう: 私たちの父である神よ、私たちの希望と信仰を増してください。私たちの愛と正義のセンスを確かなものにしてください。兄弟、特に最も助けを必要としている人たちに、いつも寄り添って生きることができますように。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。