カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第13主日 ルカ9・51-62

2022.12.26 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 キリストの聖体のお祝いの後、典礼では四旬節で中断していた、年間を再開します。今日のテーマ、神の言葉は、イエスの弟子になるための呼びかけです。即ち、キリスト者として死を迎えるまでの生き方です。最初の二つの朗読に関して短いコメントをします。これらはイエスに従う使命に関係しています。

 福音書では三人のケースが書かれています。彼らは若者と想像されますが、どの年齢でも考えられます。なぜなら主の呼びかけは、もっと年齢を重ねてもありえますから。みなさんの主任司祭に、なぜ司祭になったのかと尋ね、その召命の物語を聞くことはとても興味深いかもしれません。信徒として、神の呼びかけはどのような状況だったか、大人として、あるいは家族として洗礼を受けた時の動機について聞くなら、皆さんが信仰生活を送るためのよい助けになるかもしれません。

第一朗読(列王記19・16b,19−21):預言者エリヤの弟子になる、エリシャの決心
 列王記には、若く、裕福な農民であったエリシャが預言者エリヤに従う決心をし、師のように、イエスラエルの神の民の預言者となった時の状況が書かれています。
エリシャは畑を耕していました。12頭の牛をつかって耕していました。エリヤはエリシャの上にマントを投げかけます。エリヤは、このことによってある意味、エリシャに対する導き手となる権威を手に入れたことになります。エリシャはこの出来事を神からの呼びかけとして受け入れ、耕させていた牛を屠り、家族を置いてエリヤの導きのもと、神に仕えるようになりました。
 この物語を通して、私たちは、神の特別な召命を見つけるための条件が、神の呼びかけに気づくこと、呼びかけに対し返事すること、過去との決別をし、ミッションのための新しい生き方をすることであることが分かるでしょう。そして。もしエリシャの生涯をもっと知りたければ、列王記を読み続けてください。

第二朗読(ガラテア85・1、13−18):本当の自由とは(パウロ)
 現代人は、自由に関してたいへん敏感になっています。人は、自由がないことよりも、貧困と悲惨な状況がある方が良いと考えます。
 パウロはこのテーマに関して、キリスト者は自由であると言っています。キリスト者であること、キリスト者の使命は自由である。しかし、キリストにおいて私たちは自由になります。ここに自由の意味を理解しなければなりません。すなわち、自由は愛によって表現され、その頂点にたどり着く。多くの人たちは自由と言いながら、堕落に陥ります。本当の自由は霊から来て、私たちを肉のエゴの奴隷から解放する。パウロはコリントの第一の手紙の13章に、本当のキリスト教的愛につて書いています。できればこの章を読んでください。

福音(ルカ9・51−62):イエスに従いたい三人の人
 福音書の根本的なテーマは、三人の召命を紹介することです。この出来事の背景としてルカは、イエスと弟子たちがエルサレムに向かって旅をしていることを記しています。彼らはイエスに従いたいと願い、イエスはそのために必要なこととして、人の子には枕する場所もないと語りながら、財産や物質的快楽を放棄することを求めます。神の呼びかけは、自分の家族を含めて過去と現在からの決別、そして、大切なことはただ一つ、神の呼びかけに従うことです。弟子が自由になり、神の国を告げる可用性を持つことができるようになるために、これらが要求されているのです。

 この三つに、イエスに従うための召命の共通テーマがあります:この裏にあるのは、イエスに従うための条件として、手放すべき執着、物や人を捨てること。神の国に対する奉仕の呼びかけに対して、個人的な条件や利益を優先すると、それには応えられません。

この召命のテーマに関して明らかにすることは、難しい点もあります。今日の第二朗読でパウロが言っているように、どこまで本当に自由であるのか。そしてイエスや神の国を、知らない人に宣言しながらも、自己実現、あるいは自分の名誉を求めてはいないか。従って、今日の福音書にある大切なことは、召命が本物であるようにするものなのです。

イエスに従う要件:召命が本物であるための条件
 福音書で、イエスに従いたい三人に関してイエスが要求している「別れ」は、「即」ということ。全面的で、かつ即時です。もしかしたら私たちは、イエスの硬さを感じるかもしれません。しかし、これらのことの元には緊急性があるのです。イエスはエルサレムに向けての旅を始めています。イエスは積極的に、ミッションの完成に向かっています。イエスのエルサレムへの旅は、観光旅行ではありません。師イエスは、弟子たちにこの挑戦を分かち合うためのリスク、「自分の命を差し出すこと」を要求しています。

 この長い道をイエスに従おうとしている三人に対して、イエスが彼らに諦めさせようとするかの様子がここにあります。表面的には、引き寄せるより拒否し、がっかりさせるように感じられます。実は、熱意に水をさすのではなく、偽の間違った妄想や、救世主的、勝利的なメシアニズムから遠ざけようとしているのです。弟子たちがこの道に従うことには、犠牲が伴うことを意識しなければなりません。そのような決断をすると、そこには重い責務が伴います。召命が成熟するためには、清められる必要があることをイエスは知っています。特に動機において。なぜイエスに従っているのか、なぜ共同体に仕えているのか。

イエスは今日も弟子になるよう呼びかけている
 今日も、昨日と同じようにイエスは男にも女にも、全てを置いて福音に専念するように、鋤に手を置いたなら後ろを見ず、新しい世界の建設のために命をかける人間同士の間に、正義と平等があるように、と呼びかけています。
 もう一方で、今日の福音書には、寛容と教育的な忍耐があります。弟子たちの熱意、イエスを受け入れない人を焼き尽くすために、天からの火を降らせる熱意・・・。弟子たちのこの熱意、自分たちと同じように考えない人を受け入れず、人やグループのプロセスを尊重できないこと。イエスはこのような熱意に関して注意をします。咎めず、罪に定めないように。他の村に行って、天から火を降らせることを、イエスは望みません。
イエスに従うことは、招き、神の恵みであることを忘れてはいけません。同時に、私たちの努力を含めたことが要求されていること。恵みであり、そしてまた、自分のものにしなければならないこと。神の招きであり、私たちが一生懸命、それを目標としなければなりません。しかし、愛のみ。イエスに対する恋だけで、この道を歩み続けることができます。