カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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四旬節第5主日 ヨハネ 8・1-11

2022.12.3 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 四旬節の第5主日になりました。福音には今年、姦通の罪によって死に定められた女性が、イエスに救われるエピソードがあります。
 しかし、最初に、この日曜日の核となる言葉は、「神とイエスを中心にした新しい命である」ことを、みなさんに伝えたいのです。すなわち、神が私たちを、もっと充実した新しい命を生きるように動かしてくださる、ということです。このテーマを心に留めながら、ウクライナの平和のために祈り続けましょう。ウクライナがたくさんの国々の助けによって、国としての新しい歴史を始めることができますように。福音書についてのコメントの後に、第一と第二朗読について話します。

 神様が伝えたいメッセージを、今読まれたヨハネ福音の中に探しましょう。場面はドラマティックです。イエスの言葉に、この女性の命がかかっています。そして、イエスご自身の命も。偽善的な告発者たちは、最後の裁きをイエスに委ねているように見えますが、実はイエスその人を、罪に定めて裁きたいのです。
 イエスは偽りがなく、恵みに満ちています。イエスは人の心に何があるかを知っています。罪は非難される、しかし罪人は救われる。そして、偽善は明らかにされなければなりません。

福音(ヨハネ8・1−11):イエスは一人の女性を救い、新しい人生を開かれる
今日の福音書は二つの場面を紹介しています。
a . イエス対律法学者、ファリサイ派との論争
 最初の場面では、イエスに対する律法学者とファリサイ派の人たちとの論争があります。姦通の現場で捉えられた一人の女性。当時そのような女性は石で打たれ殺される、とレビ記20・10に記されています。告発者たちはイエスに、この罪人を裁くようにと言います。その目的はイエスを試すこと、そして間違ったステップを踏ませることでした。注目すべきは、ファリサイ派の人たちが、姦通の罪を犯していた男を連れてくるのを忘れたことです。
 冷酷な告発者は、イエスを先生と呼びながら、モーセの律法を持ち出して挑発します。この女性を石で打ち殺すのは正しいか、と問いかけました。
彼らはイエスが罪人に対していつくしみ深いことを知っています。イエスがこれをどのように解決するか、好奇心いっぱいで見守っています。モーセの律法によると、彼女は間違いなく石で殴り殺される運命です。
 福音史家は出来事を詳細に記しています。告発者が執拗に質問している間、イエスは身を屈めて地面に指で何か書いています。福音史家はその内容を明らかにしていません。しかし、感動しています。イエスはすぐ女性の味方になりました。
その後イエスは、あの有名な言葉を口にしました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)。あの当時の習慣によると、最初に石を投げる人たちは目撃者でなければならない、すなわち、罪人を見つけ、捉えた人たちです。イエスの言葉は告発者たちの心の内面に入り、彼らは自分自身が罪人であることに気づいたのです。振り返れば、彼らも罪人であるということ、もしかしたら、その女性以上に罪びとだと気づいたのでしょう。年長者から、一人、また一人と、去っていきました。

b. イエスと女性との会話
 二つ目は、短く、イエスと女性との感動的な対話の場面です。告発者たちは去って行き、イエスと女性だけが残りました。地面に何か書いていたイエスは身を起こし、女性と目を合わせました。イエスは女性の罪を赦しながら、新しい命に導きます。新たなチャンスを与えながら。何も説明を求めませんでした。ただ質問します。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」(8・10)と。そして、感動的な言葉が投げかけられます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8・11)

 イエスはモーセの律法に関して、論理的な議論はしませんでした。律法学者とファリサイ派の人たちに対して、モーセの律法の解釈についてのアカデミックな議論で勝つことに興味はなかったのです。イエスの目的は、一人の命を救うこと、そして、救いを伝えることです。完全な命、それは神の愛のみに見出されるのです。
 ですからイエスは、女性に別れを告げる時に赦しを与え、新しい命を始めるよう招きました。
神の赦しを受けるプロセスには、大切な条件があると思います。それは悔い改めること、神に心を開くこと、そしてその愛に捉えられることです。このように、神の赦しが私たちの中に命の変化をもたらします。これを私たちの人生の、神への回心の実り、と言います。
 
 兄弟姉妹のみなさん、今歩んでいる四旬節の道は終わりに近づいています。神は私たちを見捨てません。私たちは、その愛が、喜びと平和の源であることを確信しなければなりません。それが、幸せになろうとすることの前に立ちはだかる障壁を乗り越えるための力になります。
 今日の福音の黙想によって、説教を終わることができます。しかし、そのテーマをさらに深めて完了したい方々には、第一と第二朗読を読むキーワードを提案したいと思います。

第一朗読(イザヤ43・16−21):神が行う新しい脱出
 イザヤは、歴史的な困難の中で落ち込み苦しんでいるイスラエルの民に対して、神は、エジプトからの脱出よりもっと素晴らしいことを行われる、敵の馬や戦車を倒し、神が歴史の新たな段階を開くであろう、そのしるしとして、砂漠が神の命の豊かさでいっぱいになるのを見るであろうと宣言しています。しかし、その条件として、イスラエルは神に立ち帰らなければなりません。いつもイスラエルのために働かれた神への、全面的な信頼を新たにしなければなりません。

第二朗読(フィリピ3・8−14):パウロはキリストとの出会いで新たな人生を始めた
 ここで語られているパウロの言葉に触れると、私たちは直ちに、使徒言行録で語られている、パウロの三度の回心の場面を思い起こすことができるでしょう(使徒言行録9・1−11、22・3−16、26・9−18)。ダマスコの道でのキリストとの出会い、全てにおいて新たにされた命、そして、人生をどのように新たに歩み始めたかを思い起こし、パウロ自身が、この回心をどのように表現しているかを味わいましょう。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3・8−9)。そして、その先に「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3・10−11)と語っています。

最後の招き
 パウロがダマスコの道で復活されたイエスに出会い、キリストを深く体験し、人生が完全に変わり、クリスチャンへの迫害者からキリストの偉大な使徒になったように、私たちも深くキリストと出会えますように聖母の取り次ぎを願いましょう。そして、人間を裁くことと罪に定めないことをイエスから学びましょう。