カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第8主日 ルカ 6・39-45

2022.12.27 (日)
兄弟姉妹のみなさん、

 先週の日曜日の福音の中で、ルカは、キリスト者の敵に対する態度はどうあるべきか、ということについてのイエスの言葉を伝えていました(ルカ6・27−36)。今日、年間第8主日C年で、ルカは、今度は、共同体の兄弟に対してどのような行動をとらなければならないかについてのイエスの言葉を紹介します(ルカ6・37―45)。すなわち、今日はイエスの福音のテーマが変わっています。敵に対してではなく、共同体の他のメンバーに対する行動がどうあるべきかについて注目しています。ルカがわざわざこのテーマを選び、福音書の中に書き残したのは、当時、共同体の中に悪い雰囲気が流れ、色んな問題が生じていたからかもしれません。
 ルカが指摘している現実は、初代のキリスト者の中にあった現実ですが、実は、全ての時代と場所において、キリスト者の中にある課題なのです。ですから教会は、この福音の箇所を繰り返し味わい、絶えず反省し、共同体生活の中で良い関係を築く姿勢を強め、関係を傷つける姿勢を絶えず見直して清めなければなりません。共同体が良い実を結ぶためには、態度を修正する必要があります。「悪い実を結ぶ良い木がなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木はそれぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」(ルカ6・43)。

福音朗読(ルカ6・39−45):私たちの行動と神の行動
 今日の福音の朗読を聞くとき、私には「私たちの行動は、神が私たちにどのようになさったかによって決まる」との思いが湧いてきます。
 今日のイエスは、はじめに、もし、私たちが裁くとすれば、私たちも裁かれる、もし、私たちが人を罪に定めると、私たちも罪に定められる、と話されました。そして、その後、一転して、もし、私たちが人を赦すならば、私たちも赦される。もし、与えるのであれば、私たちにも与えられるのです、と話されました。ルカが心にかけていた、共同体にとってのテーマは「裁くな、罪に定めるな」であったのではと強く想像できるところです。
共同体に向かっての今日のイエスの教えは次のようにまとめることができます。
1)もし、他の人を裁いて罪に定める、良い視力を持っている、と思っていたら、あなたは間違っています。あなたは盲目です。そして、目が見えない人が、目が見えない人を案内すると、二人とも穴に落ちる。(6・39)
2)もし自分自身を賢いと思い、他の人を裁いて罪に定めることが自分に用意されていると思ったら、間違っています。あなたは師でなく弟子である。努力を重ねて求められることは、師のようになることです。(6・40)
3)もしあなたが、他の人を裁いて罪に定めるに相応しいと思っていたら、違います。あなたは偽善者です。あなたの間違いの方がもっと大きい。あなたの目の中の丸太は、あなたの兄弟の目の中にあるおが屑より、大きい。そして、それがあなたをよく見えない人にしているのです。(ルカ6・41−42)
4)もし、他の人を裁いて非難している時、あなたがそれを楽しんで、あるいは、非難されている人が被害を受けていると思ったら、それは間違いです。あなた自身に被害が与えられています。なぜなら、あなたの口から出る言葉は、あなたの心の中にある悪意を表しているから。良い木と悪い木を照らし合わせること、それぞれの実り。そのキーワードは最後の言葉にあります。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」良い人からは、決して非難は出ない。悪意のある判断や、悪口ではなく、赦しと寛大さのみが出ます。その替わり、非難する人、裁く人、悪口を言う人は、心が腐っていることを明らかにしている(43−45)。
 イエスの勧めは、神様が私たちをいつくしみ深く扱い、許してくださるための、最高のレシピのようです。残念ながら、私たちは、多くの場合、神が喜ばれないことをしています。特に、しばしば、他の人たちを非難したり、罪に定めたりします。さまざまな人が現れることに、戸惑いがあります。目が見えない二人の人。一人の弟子と、その師。共同体の二人のメンバー、一人は良い人で、もう一人は悪い。一人は賢く、家を岩の上に建てます。もう一人は愚かで、砂の上に家を建てます。様々なイメージが描かれています。一つの穴、目の中のおが屑と丸太、良い木と腐った木、いちじくと茨、ぶどうと野ばら。どのたとえも私たちの心に深く届くのではないでしょうか。

第一朗読(シラ書:27・4−7):話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。
 貴金属のイメージ。やきものが火で吟味されるように、木がよく手入れされていれば良い実を結ぶ。このような例えを使いながらシラは、人の本質はその言葉と行いに現れることを記しています。人の言葉や論議は、その人の本質を表します。この短い第一朗読をもう一度読み、ここまでコメントしてきた今日の福音書との関係を見つけるようにしましょう。
 預言者たちは、常に民に問いかけています。民が別の方向へ離れてしまう時、呼びかけています。民が他の神々に熱意を向け崇拝する時、それは恰も燃えているように感じますが、命が保証されていないので偶像崇拝になってしまいます。そのような民に向かって、預言者たちは常に呼びかけているのです。神々は何者でもない。イスラエルの神が、命、愛、歴史である。神を知ることは、「正義を行うこと」(ミカ6・6−8)。
 預言者たちは、この言葉を脅迫観念のように繰り返しています。
 愛と正義の実践は、全ての崇拝や生贄、あるいは教義の正当性の上にあることを忘れてはいけません(イザヤ1・10−18、58.1・12、66.1−3、アモス4・4−5、5・21−25、エレミヤ7・21−26)。今日、私たちも同じように、もっと熱意がある崇拝に向かう可能性がありますが、愛、いつくしみと正義を実践せずに、熱烈な崇拝に逸れてしまうこともあります。

第2朗読(①コリント15・54−58):イエス・キリストによって勝利が与えられる
 パウロは、終末、つまり、主の再臨は差し迫っている、と思っていました。その日が訪れる時、自分はまだ生きていると思っていました。しかし、何もせずにただ待っている、受動的な希望に私たちを導いてはいません。何もせずに待つのではなく、それぞれが示された務めを果たしていることへの招きなのです。残念ながら、当時、コリントでは、世の終わりが差し迫っているという話に惑わされ、多くの人たちが仕事を辞め、消極的な態度でその日を待つようになっていました。コリントの人々のそのような姿を前にして、パウロは、しっかりと自分の務めに向き合って努力し、仕事に励むように促しました。パウロも含めて、初代のキリスト者も、この主の再臨がまだ起きていないことを私たちは知っています。
 しかし、最終的な栄光の復活への希望は、私たちが今味わっている戦いと苦しみに意味を与えます。ローマ帝国における社会の悪や汚職に対する戦いの中で、パウロが起こした霊的な動きは、ローマ帝国全土、特に地中海沿岸都市にまで広まりました。

共同体の祈り
父である神よ、あなたはイスラエルの歴史を通して、救いの業や出来事を示してくださいました。同じように、他の民の歴史においても、救いの現存を発見できる心を与えてください。それによってあなたが訪れた時、あなたが全ての文化や宗教の多様性の中で命を与える、生きた神であると、私たちが気付くことができますように。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。