カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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四旬節第3主日 ルカ 13・1-9

2022.12.20 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 四旬節第3日曜日のテーマは回心です。詠唱で、このように宣言しています。「神に立ち戻りなさい。神の国は来ている」(マタイ4・17)。主ご自身が私たちを回心に招いています。私たちの生活は福音に沿っているでしょうか。犠牲といつくしみの業を通して、イエスに倣いましょう。
 今日の三つの朗読の黙想が、今、私たちが直面している、悲劇的な時を生きるための助けになりますように。特にウクライナの戦争について。人口4千万人の内の300万の人が、国外、特に近隣の国であるポーランド、ルーマニア、スロバキア、ハンガリー、モルドバなどに避難場所を探しています。ヨーロッパの他の国々に逃げる人たちもいます。そして、すでに多くの国々が彼らを受け入れています。また、ヨーロッパを超えて日本にも。日本には今、1900人のウクライナ人が住んでいるそうです。
 政府の取り組みによって、小教区教会がある町や地域に彼らが来る時、私たちの教会は彼らを受け入れるために開かれるでしょう。特に、彼らが祈るために。兄弟愛的支援を受けることができるように。私たちの共同体で彼らを受け入れることは、主イエスが、国々の審判で言われているように、神の祝福の源です。「旅をしていたときに宿を貸し、」(マタイ25・35)。

福音(ルカ13・1−9):全ての人が回心に招かれている
 イエスは今日の福音を通して、二つの出来事を思い起こさせてくれます。一つは、神殿内でのローマの警察による残忍な抑圧(ルカ13・1)。そして、シロアムの塔が倒れて、18人が下敷きになった悲劇です(4節)。人々はこの出来事を罪による天罰と捉えています。ですから、それは正しいこと、それが正義で、自分たちはそのような災難から免れている。だから何も回心する必要はない、と思っています。
しかしイエスは、そのような姿勢は妄想だと訴えました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(2〜3節)
 この出来事を深めるのは、私たちがもっと積極的に回心の道を歩むようになるためです。主に心を閉じること、また、自身の回心の道を歩まないことが、私たちを死に至らせるからです。
 四旬節で、神は、私たち一人一人が人生の方向性を変えるよう、招いています。熟考し、福音に従って生きること。祈り、行動、働き、そして他の人との接し方を修正しながら。イエスがこのように呼びかけているのは、私たちに厳しくするためではなく、私たちの善、忠実、救いを心配してくださっているからなのです。私たちの側からは、誠実と内的な努力をもって答えなければなりません。回心するべき点を理解できるよう、願わなければなりません。
 福音は神に立ち返る必要性と、その緊急性を強調しています。イエスの基準、御国の福音に沿った生き方を新たにするように、と。
 あの時代の習慣に基づいて、イエスは葡萄園に植えられたイチジクの木の例え話を紹介します。このイチジクの木は不妊で、実を結ばない(ルカ13・6−9)。
 主と園丁との会話で神は、一方ではいつくしみ、つまり忍耐を持って私たちに回心の時を与えてくださることを表しています。もう一方では、急いで内面と外面の両方を変えなければならないと言われます。神のいつくしみが、霊的怠惰を乗り越え、父である神の愛に、私たちが子どもとしての愛で応えるよう、与えられたチャンスを無駄にすることのないように呼びかけます。

第2朗読(�@コリント10・1−6、10−12)
 パウロが指摘しているのは、最後まで諦めないこと。そのため、コリントの人たちに、砂漠でイスラエル人たちに起きた、いくつかの出来事を段階的に思い起こさせています。それは現代の共同体に生かすためです。パウロが教育された伝統では、エジプト脱出のテーマがよく利用されていました。イスラエル人たちは、神から恵みを受けた民でした。しかし彼らの多くは、それに答えず偶像に走り、不平を言い、荒れ野での誘惑の時、神から選ばれたモーセに対して反逆者になりました。
 荒れ野は、伝統的な試練の段階です。それは人間として、キリスト者としての生活に伴っているものです。パウロは、私たちの生活から全てのうぬぼれと傲慢を取り除くよう、謙遜であるように、そして、私たちの生活に訪れる誘惑に注意しているように招いています。神は私たちの力以上のものでは試さない。つまり神は、誘惑の時に私たちを置き去りにはしません。

第一朗読(出エジプト3・1−8a、13−15):神は難しい使命のために、モーセを選ぶ
 兄弟姉妹のみなさん、強い季節である四旬節が、私たち一人一人に神の神秘を認めるよう招いています。この神秘が、第一朗読で聞いたように私たちの生活に訪れます。モーセは砂漠で燃えている柴を見ました。燃えている、しかし燃え尽きない柴。初めは好奇心にかられて、この神秘的な出来事を見るために近寄ります。すると、柴の中から声が聞こえました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(3・6)。この神がモーセをエジプトに送ります。イスラエルの民を約束の地に導く使命を負わせ、ファラオに神の名によってイスラエルの解放を願うようにさせました。
 その時、モーセは神に「名」について聞きました。その名が神の特別な権威を表し、民とファラオに紹介することができると考えたからです。神の答えは奇妙に思われます。答えてはいるのですが、しかし答えていないような感じがします。単純に、ご自身について、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と言われました。そして、それで十分であると。
 従って神は、モーセの要求を退けず、ご自分の名前を表しました。名前を啓示することによって、神は私たちと関係を持ち、神との交わりを持つ可能性を与えてくださいます。神にアクセスできるように、神が私たち人間の世界に入って来られることを表しています。神が人間に任せる。神はご自分を与え、人間に世界を委ね、ご自身が私たちのようになることを表しているのです。
 
神の名の神秘を黙想しましょう。それによって四旬節の神秘をもっと理解することができますように。個人的あるいは共同体として、常に回心を生きるように願いましょう。この世で、私たちが愛によって解放され、生きておられる神の証し人となれますように。
 
 イエスの母であるマリアに願いましょう。
私たちに寄り添ってください。四旬節の道行を支え、それぞれのキリスト者が心から主に立ち返るよう、助けてくださいますように。
私たちの生活の中で、悪を放棄する強い決心を支え、神の御心を、信仰を持って受け入れることができますように。