カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

←前の年 2022年  次の年→ 

四旬節第1主日 ルカ 4・1-13

2022.12.6 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 先週水曜日の灰の儀式で、霊的刷新の時としての四旬節が始まり、復活祭のお祝いの準備がスタートしました。教会の教えに従って、断食とともに、教皇フランシスコの呼びかけに応え、世界平和、特にウクライナのために、今日を祈りの日にしましょう。

 教会は四旬節の期間、霊的に新しくなるよう、皆さんに呼びかけています。再び神に向かい、傲慢や利己心に偏ることなく、愛に生きるようにと努めながら、信仰によって神を再発見するための特別な期間です。
 それは霊的戦いです。なぜなら、悪霊が私たちの聖化を邪魔し、神の道から逸れさせようと働くからです。ですから、この四旬節の第一日曜日には、毎年、イエスが誘惑を受けられた福音箇所が朗読されます。マタイ福音書(4・1−14)ルカ福音書(4・1−13)では、イエスがお受けになった三つの誘惑を紹介しています。その順番だけが違います。中心になるのは、いつも自分の利益のために神を利用すること。成功、あるいは物質的なものを優先すること。誘惑は、こっそりと、密かにやって来ます。直接的に悪を押しつけるのではなく、間違った善、すなわち、全のように見えてしまう悪に向けさせるのです。それは、権力と自分自身の欲を満たすものが本当の現実であるように見せます。このようにして、神は二次的で、恰も手段のように矮小化され、遂には、人間の便利な道具に過ぎないものとなってしまいます。このように権力者は何世紀もの間、神と宗教の名によって力による神を押し付けてきました。
 今日はイエスの誘惑について時間をかけ、最後に、第一と第二朗読をどのように読んで黙想すれば良いかに触れます。

福音書(ルカ4・1−13):イエスの誘惑
 キリスト者の最初の世代は、この試練に興味を持ちました。イエスが神に忠実であるため、そして常に神の計画に協力しながら生きるため、世界がもっと人間的で尊厳あるものであるように人々を導く者となるために、イエスがどのように試練に打ち勝ったのか、初代のキリスト者たちは大いに興味をもっていました。
イエスの誘惑の物語は、ある時、ある場所での別々のエピソードを集めたものではありません。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、ふさわしい時が来るまでイエスを離れた。」(ルカ4・13)とルカは指摘しています。
 誘惑は、イエスの人生、そして弟子たちの人生に度々に訪れます。ですから福音史家たちは、イエスの予言的な行動を語る前にこの物語を位置付けています。イエスに従う人たちは、最初から、誘惑があることをよく知らなければなりません。なぜなら、イエスから離れたくなければ、誘惑は、どんなことをしても、乗り越えなければならないからです。

一つ目の誘惑(ルカ4・2−4):飢えを満たす
 ルカ福音史家は、イエスがヨハネから洗礼を受けたのち、「聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(ルカ4・1…)と記しています。イエスはこの期間、何も食べず、飢えを感じた中で誘惑を受けられました。
最初の誘惑はパンについての話です。悪魔は言います。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(4.3)と。イエスは、ご自分の飢えを満たすために神を利用することに抵抗します。イエスにとっての第一は、神の国とその義を求めること:皆にパンがあるように。ですから、あの日、飢えている大勢の人たちを養うために神に願ったのです。
 今日の私たちも同じ誘惑を受けます。自分のパンだけ、自分が陥る危機だけを心配する。「自分たちは全てを持つ権利がある」と思うこと、そして、生きるためのドラマ、人々の恐れ、苦しみを忘れること、それらは、イエスから離れることを意味します。

二つ目の誘惑(ルカ4・5−8):権力と繁栄
 第二の誘惑は権力と繁栄について。この世の国々の王になれると誘惑する、悪魔の前に平伏さない、と。イエスはこの全てを放棄します。イエスは仕えられることを求めず、仕えることを求めます。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」(ルカ4・6)
 あるキリスト者にとっては、昔、教会が権力を持っていたように、今もそこに留まろうとする誘惑があります。他の人に、私たちの信じているものを権力で押し付けること、キリスト者であるようにと強制することで、私たちはイエスから離れます。いつくしみと結びつきある世界のために働くことによって、私たちは神の国の道を開くことができます。

三つ目の誘惑(ルカ4・9−12):壮大なしるしを誇示する
 最後の誘惑は、壮大な奇跡の勧め。神殿の屋根から飛び降りれば、天使たちたちが助ける。それによって誰もが彼を信じる。しかし、イエスは天からの壮大なしるしを見せびらかすことを拒否します。イエスは優しさのしるしによって、人々の苦しみや痛みを和らげます。私たちは神の栄光を誇示する時、イエスから離れます。私たちは見せびらかすことで、神の偉大さを示してはなりません。必要としている人に対する謙遜な奉仕のみが、神の愛を表し、それを広げます。

第一朗読(申命記26・4−10):主は私たちの声を聞いてくださる
 今日の第一朗読は、四旬節の歩みに深く繋がっています。アブラハムからモーセを通しての長い歴史の中で、イスラエルが神の民として他の民族や神自身との難しい時があったことを思い起こしましょう。かつて、全てのイスラエル人は、どの時代にあっても、この重要な信仰宣言を唱えなければなりませんでした。自分たちの根源は神にあって、神なしでは幸せな将来はないということを宣言したのでした。
 ですから、今、私たちのこれまでの人生の歩みの振り返りをしましょう。特に、神の現存を身近に感じた時を思い起こしましょう。

第2朗読(ローマ10・8−13):言葉はあなたの近くにある
 パウロに招かれ、立ち止まって、この四旬節の四十日間の歩みを神の言葉に耳を傾ける時にしましょう。主なる神の子であるイエスによって、もっと神と一致しましょう。私たちの考え方や行動は、イエスが教えておられる神の国の福音を表しているでしょうか。

 説教の終わりに当たって、神の母聖マリアに向け、助けとご保護を願います。私たちの試練の時、イエスのように悪魔の様々な誘惑を、確信を持って退けることができますように:神の母聖マリア、私たち罪人のために、今も死を迎える時もお祈りください。アーメン。