カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第5主日 ルカ 5・1-11

2022.12.6 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 この日曜日の朗読箇所、特に第1朗読と福音朗読は、特別なミッションを委ねるために、神がある人たちを呼ばれるという話です。

 第1朗読はイザヤが神に呼ばれたことが書かれています。ご自分の民のために働く、預言者としての使命を委ねる目的がありました。イザヤ自身は、その難しく危険な使命を成し遂げるには、自分は相応しくないと感じていました。しかし、神から必要な力をいただいて、全力を尽くす確信をもって、その使命に取り組みました。
 福音朗読はC年に該当し、ルカ福音書を中心にしています。最初の弟子たちの召命、すなわち、ペトロ、ヤコブとヨハネ、彼らの召命の背景などについて語っています。それは、夜通し苦労したにもかかわらず、魚が全くとれなかった後の、奇跡的な体験でした。
 まず、イザヤの召命の状況などを見ていきましょう。なぜなら、主が私たちの間でなさっていることを理解するため、また、私たちの共同体が日本の社会で特別な使命を担っていくために役立つ、特に、最も弱い立場にいる人と、霊的、物質的に助けを必要とする人たちのために働くために役立つと思うからです。

第1朗読(イザヤ6・1−8):預言者の召命。ここにおります、わたしを遣わしてください
 第一朗読の作者は、この場面を具体的な時、紀元前740年に位置付けています。これはウジヤ王が亡くなった時で、物語は全体像(1−4)と預言者の反応(5−8)の二つの部分に分かれています。
 恐らくこの場面は、エルサレムの神殿で始まっています。そこで預言者は、幻のような新鮮な典礼を見ました。預言者は神を力を発揮している王の姿の中に見ます。そして、「衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」、「主の栄光は地をすべて覆う。」など、特別で豊な表現が目立ちます。セラフィムたちは火の翼を持つ存在で、その後の伝説が伝える天使たちではありません。セラフィムたちは奉仕の姿勢で、王の上にいます。セラフィムたちは、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主・・」という歌を唱えています。神の神聖はご自分の栄光を通して、見える形になっています。そして神の栄光は、被造物の業と、ご自分の民に対する解放の業を通して表されています。
 5−7節で、イザヤのビジョンに対する反応が示されています。ご自分の唇と、民の汚れが強調されています。イザヤは、自分は駄目だと感じています。それは、もしかしたら語るべき時に語らなかったから。それが彼を汚れたものにし、神の名よって語る使命を果たすには相応しくないと感じたのです。回心を表す苦悩の叫びは、受け止められ、セラフィムによって炭火が彼の口に触れ、罪が許されたのでした。
 するとイザヤは、再び預言者として資格が与えられ、罪の苦悩から、預言者として認められたという自信へと移っていき、すぐに答えたのでした。「わたしがここにおります」と。これは、寛大さと、主の意思に全面的に賛同する者である、ということを表しています。

第2朗読(①コリント15・1−11):キリストは死んで復活した
 ①コリントの15章のメインテーマは、イエス・キリストの復活です。幾人かのコリント人に疑われていた、イエス・キリストの復活を主題としています。
 パウロが宣言している内容は、最初のクリスチャンの信仰宣言から取られている文章です。ここでは、私たちの罪と、私たちの救いのために死んだキリストが主人公です。そして、パウロ自身が、私たちの間に生きておられる、復活されたキリストの生き証し人なのです。なぜなら、ダマスコの道で復活されたキリストと本当に出会ったから。パウロの回心の物語は、使徒言行録にあります。その作者はルカ。使徒言行録の中で、三度、触れています(使徒言行録9・1−22、22、3−16、26.9−18))。パウロ自身もいくつかの手紙の中でこの出来事について触れています(①コリント9・1、15.8、ガラテア1・1、11〜)。確かにパウロの回心は、ルカの時代の全ての共同体で何度も語られていたのでしょう。それは、パウロがローマで死んだ後のことです。教えを伝えるために最も効果的であるように、ルカは思い出やデータ、詳細を拾い、それを構成し、美しい歴史にしました。ですから、カトリック教会では、1月25日に聖パウロの回心をお祝いしています。

福音朗読(ルカ5・1−11):イエスは最初の弟子たちを呼ぶ
 今日の福音書にはイエスとペトロの会話があります。シンプルですが深い会話です。この会話は、今の私たち、この世の荒れた水の中にいる私たち、流れに逆らって進もうとしている私たちにも当てはめることができます。ペトロは仕事柄、どの場所で、どの時間に漁をすれば良いかの、専門的な知識を持っていました。夜の静かな湖では、魚がとれると知っていましたから、その晩は夜通し漁をしていました。しかし、一尾もとれませんでした。そこへ漁師でないイエスが現れ、ただ網を湖に入れて漁をするように言いました。
 専門家であるペトロは、その時刻と場所が漁に適していないと否定することはできたのです。もしそうしていたら、全てがそのままだったでしょう。しかし、ペテロは、「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と言ったものの、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答え、船から網を入れました。そして、私たちはその結果を知っています。すばらしい漁でした。イエスがペトロに沖に漕ぎ出すようにと願った時、それは日頃の水辺を超えた冒険へと招いています。もっと広い地平線を求めて。そしてペトロはイエスの言葉を信じました。
 これが本当の奇跡です。すべてが非論理的であっても信じること。魚でいっぱいになった網は、単えに信仰の結果です。福音書の全ての奇跡の物語は信仰から始まり、あるいは信仰を起こします。これがイエスの働きを見る条件です。これが無い時は、信仰が無い時です。この後、イエスは向こう岸へ渡ります。

私たちの信仰を増してくださるよう、主に願いましょう
 それほど単純なことではありません。大きな信仰が必要です。神は私たちに信仰の賜物をくださいます。私たちは、それを芽生えさせ、育て、実らせなければなりません。イエスを信じ、その言葉に従い、沖に漕ぎ出したペトロのような信仰を願いましょう。主イエスの名によって網を入れ、漁をするのです。そうすれば、私たちの人生と共同体の中で、奇跡を見ることができるでしょう。
 イエスは弟子である私たちに、ご自分の言葉を信じるよう求めます。イエスが与えてくださる使命はとても大きく、成功の確率は低く思えるかもしれません。しかし、イエスは、御国の福音が、世界に、そしてそれぞれの共同体と家族の中に芽生えるよう、私たちに望みをかけ、力を貸してくださいます。
 人間を獲る漁師にするために、イエスは使徒たちを呼びます。沖に漕ぎ出すことを要求されます。安全な海岸に留まることを手放し、無限の地平線をもち、責任をとって、大きな業に取り組んでいくようにと招かれます。神の国に奉仕する、すなわち、この世界が、世界の全ての人、特に貧しい人、阻害されている人と社会で最も弱い立場の人たちが必要なものを得られる世界となるように世界に漕ぎ出すようにと私たちを励ましてくださっているのではないでしょうか。

終わりに
 自分自身に問いかけましょう。
あなたの人生のある時、もしかしたら青年時代、あるいはもう少し大人になった時、あなたの生き方を変えるような、強い呼びかけを体験したことがありませんか。アルコールやタバコを止めようと思ったこと、定期的にミサに参加し、祈りたいと強く感じたこと、罪の生活から離れたいと心の底から思ったこと、さらには、修道生活や司祭への道へ強く憧れたことなど。
 イザヤや、最初のイエスの弟子たちと同じような、あなた自身を回心に導いた、神の現存と恵みの働きの、忘れられない神体験を思い起こしましょう。