カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第6主日 ルカ 6・17、 20-26

2022.12.13 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
今日は典礼暦C年の年間第6主日を迎えています。
まず今日の第1朗読にある、預言者エレミヤのメッセージを強調して始めたいと思います。
その後、コリントのあるグループの間違いに対して、パウロがイエスの復活への信仰を持って反論した物語に注目します。そして、今日の福音書について、深めていきたいと思いますが、その前に、一昨日の祝ったルルドの聖母の祝日について触れたいと思います。
 教皇フランシスコはその日、「世界病者の日30回目」のメッセージを発表され、パンデミックの初めから問いかけていることを重ねて呼びかけられました。すなわち、神の協力者になるように、特に、苦しんでいる人のために、祈りに近づくように、そして、医師や人の健康を守る医療従事者、救急車の運転手や、病院で掃除をする方たちなどに感謝するようにと。たとえ、健康の専門家でなくても、苦しんでいる人に寄り添うことができます。家族の誰かが感染し、自宅待機をしなければならない人たちに電話をかけたり、食料を届けることもできるでしょう。どんな時でも、私たちは神の愛と慈しみの運び手として招かれています。

第1朗読(エレミヤ17・5−8):主を信頼する人は幸いである
 あの当時の政治家が使命を果たしていないことに気付くように、エレミヤは民を目覚めさせようとしています。神が願っているように、社会の最も貧しくて弱い人を守らず、権力者や金持ちと手を組んでいる。彼らは、司るための権限は神から与えられたものであることを忘れています。エレミヤは、金持ちや権力を持っている人たちではなく、声をあげられない人たちが、それがユダヤ人であろうと、外国人であろうと、もっと人間らしく尊厳をもって生きられるようにと願ったのでした。

詩篇1:幸せな人、主に信頼を置く人は幸いである
 答唱詩篇は、エレミヤを受けて、神に信頼するよう、現代の不正や試練の中、もっと良い社会を築いていく希望を失わないようにと人々を招いています。
 
第2朗読(①コリント15・12、16―20):もし、キリストが復活したのなら、私たちもキリストと共に復活するであろう
この章では、コリントの共同体の中に生まれていたキリストの復活についての疑問を持つ人たちへのパウロの反論が紹介されています。
 パウロは、律法学者たちの推論のスタイルを用いながら、キリスト者の生活にキリストの復活が重大な影響を与えることについて深めています。パウロにとって、キリストの復活を否定すると、キリスト教的メッセージが全て無になる、基礎のない、無意味なものになるのです。今日の私たちキリスト者の間には、イエスの復活を疑問に持つ人はいないでしょう。しかし、なぜか、永遠の命に対する信仰はますます弱くなっていると思います。私たちの死ですべてこの世は終わる、という精神性、この世で幸せでなければ死後も幸せでないであろう、という考えによるものです。
 パウロが招いているように、キリストの復活の信仰を再確認しましょう。私たちもキリストと共に復活し、神と共に永遠に生き、すでに天国にいる全ての兄弟と交わるために、私たちは復活するのです。

福音朗読(ルカ6・17、20−26):貧しい人は幸いである、富んでいるあなたがたは不幸である
今日朗読されたルカ福音書の箇所は、よくご存じのあのマタイの「山上の垂訓」と対比して、平地でのスピーチ(ルカ6・17−49)として知られています。
 ルカはこのイエスのスピーチを書いた時、一世紀末の共同体を前にしていました。そこでイエスには外的、内的、さまざまな敵がいました。イエスご自身が、弟子たちに外的な危険について注意するように言います。それはユダヤ教責任者が起こしていること。あるいは弟子たちの間で起きている内的な敵。それは野心、恨み、妬み。共同体内での分裂は、もっと大きいものです。
 共同体には貧しい人が多いのですが、金持ちも何人かいます。ある人たちは礼拝の時に酔っ払っています。もう一方に、飢えている人たちがいます。その集会では、良い服を着ている人を丁重に扱い、貧しそうな人を軽蔑するのです。
 そのような人々への宣教を始めたイエスが弟子たちに向けて行ったスピーチです。
 導入部分で「幸い」と「不幸」を対比させています(6・20−26)。そこにあるのは革命や戦争もあり得る状況でしたが、今日の朗読箇所に続く箇所(6・27−45)では、友達や共同体の他のメンバーと、どのように行動すれば良いのかについてのイエスの勧め、すなわち、敵を愛するようにとの勧めが語られます。そして、スピーチの最後は警告で締めくくられています(6・46−49)。

スピーチを聞いていた人たち
 イエスの話を聞いている人たちは、3つの違ったグループになっています:
1)十二使徒:イエスに選ばれて山から降りている
2)他の大勢の弟子たち:彼らには前もって話していたと思われますが(5・30、33、6・1、13)、このグループは誰なのか、どのようにイエスに従ったかについては、書かれていません。
3)民の大群衆:ユダや、エルサレム、ティルスとシドンの海岸からきた人々。イエスの話を聞くため、ただイエスに触れて、イエスから出る力をいただくことによって病気の癒しを求めたグループです。ガリラヤの名が書かれていないことを不思議に思います。その代わりに、イエスが何も活動しなかった、フェニキアが書かれていることも奇妙です。

幸いと不幸(6・20−26)
平地のスピーチと山上の垂訓も、「幸い」で始まっています。しかし、ルカは、マタイのように8つでなく、4通りの「幸い」になっています。「幸い」というのは、旧約聖書のよく知られている文学の分類です。特に詩篇と知恵の書で、「神を信頼する人は幸いである(詩篇40・5;146・5;40・2)と言っていることがすぐ思い浮かびます。
 ルカが拾っている「幸い」は、受け入れ難い状況ですが、そこに正当化するものが伴っています。(「神の国はあなた方のものである」、「あなたがたは満たされる」、「あなた方はもう慰めを受けている」)。
 最初の4つのグループには、幸せな人生が約束されています。次の4つには死が宣言されています。そして、最後の「幸い」について語られます。それは信仰によって迫害され、社会から阻害されているキリスト者に向けられています。ルカが強調している「幸い」は、被害を受け入れ、苦しむことではなく、天の国に大きな報いをいただくことに呼ばれている、という自覚にあるのです。
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである・・・飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、笑うようになる・・・そして人に憎まれ、追い出され、ののしられ・・・その日は喜びなさい。なぜなら、天に大きな報いがあるから。」