カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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主の洗礼 ルカ 3.15-16、21-22

2022.12.9 (日)
兄弟姉妹のみなさん、

 主の公現の次の日曜日、主の洗礼の祭日の今日で降誕節が終了します。
おとめマリアから生まれたあの幼な子が、今日、大人として、ヨルダン川に入り、洗礼を受けられたことを祝います。

イエスの洗礼(ルカ3・15−16、21−22)
 なぜか、福音史家たちはみな、12歳のイエスの神殿での出来事を書いていますが、その後について何も語らず、いきなり、イエスの洗礼のことを書き記しています。今日朗読されたルカの福音書に描かれた洗礼の場面に現れているイエスは、メシア、主でも、異邦人の光、イスラエルの栄光、でもありません。そこでのイエスは、ヨハネのメッセージに興味を持ち、人々に紛れて、「蝮の子らよ」と呼びかけ、神の怒りをもって脅し、人々に良い行いをするようにとの励ましや、そうでなければ、実を結ばない木のように斬られてしまう、あるいは役に立たない藁のように焼かれてしまう、という声や洗礼についての話を聞いている、ただのガリラヤ人のように想像できます。

 続いて、ルカは、ヨハネが民衆に語った素晴らしいことばを記しています。メシアを待ち望み、もしかしたら、ヨハネがメシアではないかと考えるようになっていた民衆にとって、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解くべうちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3・16)とのヨハネの思いもかけない言葉はどのように響いたのでしょうか。

 そして、続いて、ルカは、洗礼を受けた後祈っておられたイエスの上に起こった神秘の出来事を記しています。すなわち、
『天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に下って来た。すると、「あなたは
 わたしの愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。』(ルカ3・21-22)
と。

 この天からの声を聞いたイエスが何を感じたか、どんな言葉を口にしたかについて、ルカは何も語っていません。イエスの年齢とイエスの系図を記したのち(ルカ3・23-38)、荒野での40日間、悪魔からの誘惑の話へと続きます。

洗礼、そして、霊によっての二度目の回心
 世界の多くの国、特にカトリック国では、生まれたばかり、あるいはまた幼い子どもの時に洗礼を受ける習慣があります。両親が信者であれば特にそうです。しかし、親が信者でない場合は、一般的には、青年、あるいは大人になってイエスと教会を知りたいという希望を持つようになり、小教区に近づき、信者になるために洗礼の準備をします。そして、教会共同体に属するようになります。
 子どもの時に洗礼を受けた多くのキリスト者は、親の信仰に支えられ、自身では選択することなしに教会に親しみ、親と一緒に小教区の共同体生活に溶け込んでいきます。典礼暦年を生きる中で、自然に降誕祭のお祝いや聖週間が彼の記憶に残っているでしょう。
 しかし、幼児洗礼、あるいは成年洗礼のどちらであろうと、さまざまな理由で共同体の交わりに参加せず、秘蹟の生活からも離れ、クリスチャンであることさえ忘れがちになっている人は決して少なくありません。しかし、人生のある状況の中で、突然、特別な出来事によってキリストと再び出会い、教会共同体の交わりに強く惹かれ、困難な中にある他の人に気づき、さらにはその人を助ける気持ちが生まれ、行動的なクリスチャンになる、すなわち、新しい生き方に変わるまでになるのです。
多くの人は、この刷新、ものの見方や生き方に大きな変化が齎される、このような回心の経験を「2度目の洗礼」と呼んでいます。それは、キリストにおいての新しい誕生です。私は、これをキリスト者の新たな自覚であると言いたいと思います。信仰生活がもっと確信に満ちたものになり、そして心の中には信仰の火があり、燃えたちます。これが真の霊によっての誕生であり、全てのキリスト者が望んでいることなのですが、実は必死に願ってはいないかも知れません。

主の洗礼の日、このミサの中で、主の祈りを唱える時、この願いを胸に、共に祈りましょう。