カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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年間第7主日 ルカ6・27-38

2022.12.20 (日)
兄弟姉妹のみなさん、
 この日曜日、年間第7主日C年の福音の朗読はルカ福音書からとられています。その中に、イエスの一つの独特な表現、「敵を愛しなさい」(ルカ6・27)という表現がありますが、マタイ福音書、山上の説教の中にもあります(マタイ5・44)。イエスはこの表現を、ガリラヤでの公生活の始めの時にされています。本当にイエスの弟子になりたい人たちの印として。厳しい条件であり、実践が難しいことです。
 福音を味わう前に、イエスが弟子たちに要求されたこと、そして、今日の私たち、特にキリスト者にも要求しているものが、今日の第一朗読の中に一つの美しい例として記されていることに注目しましょう。

第一朗読(サムエル上26・2、7−9、12−13、22−23):ダビデは、王であるサウルの命を奪わなかった
 サムエル記上26章23節には、王を殺そうとして探し、追っていたダビデは、サウルの命を奪わなかったとあり、ダビデの生き方には、いつくしみや勇気があることを証明しています。サムエル記が物語っているこの出来事を見ていきましょう。
 ダビデがサウルの軍に入った後、サウルはダビデの目覚ましい行動を妬み、殺そうとします。ダビデは逃げ、逃亡者とならなければなりません。ジフの人たちが、ダビデは砂漠に隠れている、と教えました。「サウルは立ってイスラエルの精鋭三千を率い、ジフの荒野に下って行き、ダビデをジフの荒野で捜した。」(サムエル上26・2)。
 ダビデは、サウルが基地を設営したことを知り、兵士たちが寝ている間に従者のアビシャイと共にそこへ行きました。サウルと全ての兵士が、神によって深い眠りに入っていました。ダビデがサウルを殺すことができる条件が全て整っていました。
 アビシャイは、槍でサウルを刺し殺す許可をダビデに願いました。ダビデはそれを否定しました。神自身から油注がれた人に、そのようなことをしてはならないからです。
 ダビデはサウルの命を尊重することによって、いつくしみを示しています。同時に、サウルが油注がれていることを認めることによって、神に対する忠実を表しています。ダビデは全てを神の御手に委ねて、この場を終わりにします。「主はおのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。」(サムエル26・23)

詩篇103:神は恵み豊かに、あわれみ深く
 この答唱詩篇は、神から聖別されたという理由で、サウルの命を奪わなかったダビデの姿勢を讃えています。その命を神の手に委ねました。この詩篇を祈りながら、私たちに悪や災いをもたらした全ての人に対して、憐れみといつくしみを願いましょう。私たちは、神の助けなしに、若いダビデのようにいつくしみ深いものとなることはできないでしょう。

第二朗読(①コリント15・45−49):わたしたちは、天に属するその人の似姿にもなるのです
 先週の朗読箇所の続きの部分ですが、パウロは死者の復活についての考察を続けています。コリント15・35−58に私たちの体の復活について、幾つかの理由を挙げています。
 今日の箇所で、パウロはユダヤ教の色々な解釈に触れています。創世記の一章で、アダムが神の似姿として造られたこと、従って、天上のものとして造られたことが語られ、2章では、アダムは土から作られ、地上のものであり、死すべきものとして書かれています。
 パウロの教えでは、キリスト者はアダムのように地上のもの、罪人、そして腐敗するものとして生まれているのです。しかし、私たちの考えや行動は、キリストである霊的アダムの似姿に招かれています。

 そして、キリストのようになるために、今日の福音書が紹介されています。全てのキリスト者が育て、実践しなければならない、さまざまな姿勢です。
福音書(ルカ6・27−38):イエスのすばらしいニュース:敵を愛する
 平地の説教が続いています。幸いと不幸についての第一部の後、イエスは第二部に進みます。全ての人がいつくしみと普遍的な愛を育てるように。イエスの話を聞いている全ての人が、天の父のようになるために招いています。

 第一部では、倫理的な行動を前もって要求せずに、「貧しい人たちは幸い」としています。今は、その幸いに留まり続けたいなら、福音に適した生き方をしなければならないと指摘しています。今の私たちへの要求でもあります。全てのキリスト者の生き方の特徴として、次のような姿勢を実践することを、私たちに求めています。

まず、敵を愛すること、
 旧約聖書は敵に対する憎みを、自然なこことしています(詩篇35)。それに対し、イエスは、敵に対する愛を隣人に対する愛に結びます。イエスの時代以前のユダヤ教では、敵を愛することを道徳的原則としていなかったことを私たちは知っています。これはラビの文献と直接的にはつながらない、唯一の命令です。
 これこそが、イエスのメッセージそのものです。イエスの新しさは、「目には目を、歯には歯を」という、タリオン法に優っています。この法が、何世紀にもわたってイスラエルの正義を行っていました。
 これは、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という表現に優るものです。なぜなら、愛する対象に敵までも含めているのですから。
 これは、「敵がいない」という意味ではありません。不正や不寛容、汚職、暴力などに向かって、イエスのスタイルで戦う人には必ず敵が現れます。ここで大切なことは、敵に対して批判的な態度をとるのではなく、敵が回心と和解の道を見つけられるように、場所と可能性を開いていくこと。彼らが私たちの中に、神の父の愛と、兄弟姉妹と共存することが何よりも良いということを、生きた証しとして見られるように。私たちの中に天の父の姿を見ることが大切です。

 二番目に、イエスは「敵をも愛するとは」について、もっと具体的に示しています。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」(ルカ6・29−30)。
 イエスが言おうとしていることは、受動性、適合性、あるいは諦めることではありません。権力者は、キリスト教的な諦めを利用して、彼らの権利を要求する声を鎮めていました。どのくらいの年月、権力者はそのような声を無視していたのでしょうか。
 私たちの権利を放棄することではありません。また、不正に対して黙っていることでもありません。そうではなく、暴力を、違いや対立を解決するための唯一の手段としないこと。そして、自分の心地よく生ぬるい生活を放棄する、そして、必要としている人たちに、自分が大事にしている服を与えることではないでしょうか。

 このように、イエスが持っている分かち合いの概念は、元々その当時にあったものに優っています。すなわち、飢えている人にパンを与えるだけでなく、自分の命をも含めて、全てを与えることです。
 三つ目に注目したいのは、ルカ6・31に共同生活の黄金律が書かれていることです。人間として、共に共存するための重要なおきてがここにあります。それはユダヤ世界で知られていたルールでした。「互いに」、がイエスの新しさです。そこに、誠実で尽きることのない、探求「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。」(ルカ6・31)があります。

 人を大切にしている証しは、敵を大切にすることです。自分たちの行動で世界をカオスに陥らせる人たちへの愛。違う考えを持っている人たちへの忍耐。違う道を選ぶ人たちに対する理解を宗教的に具体化しなければなりません。迫害する人のために祈る、悪口を言う人たちを祝福する。しかし、敵を愛する、祝福する、祈るということは、批判的な意見や訴えること、注意することを止めてしまうことではありません。イエスが求めているのは愛、ゆるし、祝福、それをキリスト者が実践すること、証しすることは、他者を憎む人、悪を行う人、悪口をいう人を変えるための、速くて効き目がある手段なのです。

マタイ5・16には、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とあります。
ルカ35節と36節は、美しい纏めです。
「あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」」
いつくしみは、キリスト者に必須の構成要素です。私たちをキリスト者とするものが、いつくしみです。なぜなら、それが神の特徴であり、イエスの特徴であるからです。

祈り
 いつくしみに満ちた神よ、ナザレのイエスの人生と言葉に、あなたの愛に成長するようにとの呼びかけが聞こえます。成熟と完全な愛に成長するよう、イエスを通して教えられます。友と敵を同じように愛する愛。いつも、この愛に生きることができるよう助けてください。あなたの子イエスの愛に、生きられますように。私たちの主イエスキリストによって。アーメン。