カトリックさいたま教区/CATHOLIC SAITAMA DIOCESE

司教メッセージMESSAGES

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四旬節第4主日 ルカ 15・1-3、11-32

2022.12.27 (日)
 今日は四旬節の第4日曜日です。伝統的には「レターレの主日」、あるいは「喜びの日曜日」と言われます。これらの名称は、イザヤ書(66・10)からとられているものです:「エルサレムよ喜べ」。

 レターレは、「喜びなさい」という意味です。これは四旬節の間に置かれた「ひと休み」と位置付けられます。イエスが40日にわたって荒れ野に退かれた後の、一休みという意味です。
 この日曜日、司祭が使用する祭服は、四旬節の通常の色である紫色を使うこともできますが、待降節の第3日曜日、ガウデーテの日曜日と同じように、ピンク色を使います。ピンク色は節制の期間にある喜びを意味するものとして、典礼的には年に二回しか使用しませんが、ピンク色の祭服を目にすると、四旬節、あるいは待降節が終わりに近づいたことを感じ、街角ではお祝いの準備が始まります。
ですから、今日のミサでピンク色を見る私たちは喜ぶように招かれています。節制の季節が終わり、キリストの復活のお祝いが近付いているからです。

ウクライナとロシアの「マリアの汚れなき御心への奉献」(3月25日)
 教皇フランシスコはこの金曜日、バチカンにおいての儀式をもって、ロシアとウクライナをマリアの汚れなき御心へ奉献されました。教皇は平和を願い、戦争による破壊を非難しました。
 平和のための典礼は、バチカンの聖ペトロ大聖堂と同時に、ポルトガルのファティマで行われました。教皇フランシスコは、教皇慈善活動室責任者コンラート・クライェフスキ枢機卿を教皇特使として派遣されました。教皇は手紙の中で、全ての司教と世界の信徒に対して、この奉献に一致するようにと以下のように願われました。
 「最近、私たちの家に、死に関するニュースや映像が届いています。ウクライナの多くの無抵抗な兄弟姉妹たちの家を爆弾が破壊しています。」続いて、「戦争は残酷で、多くの人に苦しみ、恐れと心配を齎しています。私たちは無力さを感じています。ですから今、世界の司教たちや信徒は、一致して、汚れなき御心のマリアに生きていることを届け、教会と人類を聖母に奉献することを新たにし、それによってウクライナとロシアが子どもの心で聖母を崇敬するように願いましょう。」
                                      
 これに先立って、ウクライナの司教団は、教皇様に、1917年、ポルトガルのファティマで、マリア様が3人の少年に啓示を与えたように、汚れなき御心のマリアに、ロシアとウクライナ両国を献げるよう、願い出ていました。
 二つ目の神秘で、マリア様は、ロシアを奉献するように要求されました。その年に始まり、それによってソビエト連邦の段階に導いた革命は、逆に、「世界に自分たちの間違いを広げ、戦争の促進と教会への迫害」が齎された革命でした。ピオ12世教皇は、1952年7月7日、使徒的手紙「Sacro vergente anno」を通してロシアを奉献し、1964年11月21日、教皇パウロ6世が、劇的な第二バチカン公会議の中でそれを更新しました。

 今日の第一朗読のメッセージは今日の福音書と関連しています。よく知られている放蕩息子の話です。放蕩息子は父のところから離れた後、人生の意味を失い、自分の惨めさを認めた時、目覚めました。そして父の家に戻り、新しい人生を再開したのです。
 このメッセージがウクライナの兄弟姉妹たちにとって、強い励みになりますように。彼らは今までの歴史では経験していない、特別な時に直面しています。昨日、教皇フランシスコが聖ペトロ大聖堂で、汚れなき御心のマリアに初めてウクライナを奉献し、そして二回目としてロシアを奉献されました。この奉献によって戦争が早く止められ、ウクライナの民が新しい歴史をスタートすることができますように。そして他の国々との国際交流が、更に良いものになりますように。

第一朗読(ヨシュア5・9a、10−12):エリコでイスラエルの新しい時代が始まる  
 この短い箇所は、神の民が歴史上、約束の地であるエリコに辿り着き、新しいステージが始まったことを物語っています。エジプトから出て、イスラエルはシナイの荒野を40日にわたって通り、最後に約束の地に入りました。その地で新しい歴史を始めることになります。パレスティナへの短い道ではなく、遠回りをしました。「炎の蛇とさそりのいる、水のない、乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、」と申命記(8・15)に記されています。イスラエルは、40年間に約40回も場所を移動しなければなりませんでした(民数記33・1−49)。しかし、その旅のおかげで、さまざまなしるしを通して、先祖がそうだったように、先祖に現れて導いた神に信頼することを学びました。

福音(ルカ15・1−3、11−32):父親と二人の息子の例え話(放蕩息子)                 この福音には三人の人物が登場しています、父親と二人の息子。異なった二つの生き方が語られています。二人の息子たちは平和に暮らしています。農民として裕福で、生きるために必要なものは持っています。作物を売り、生活は良かったように見えます。
 しかし若い方の息子は、徐々にこの生活に退屈し、満足感がなくなっています。このような生き方は続けられない、と考えました。毎朝起きること…もしかしたら6時に、その後、イスラエルの伝統に従って祈り、聖書朗読、その後仕事。そして最後にまた祈り。このように、この日、次の日。彼は考えました。「違います。人生には違う生き方があるはず。もっと自由な生き方を見つけなければ。」自分の自由な生き方。規律や神の掟、父の命令から解放された生き方。一人になり、人生は全面的に自分のものであるように、と考えたのかもしれません。
 こうして彼は、自分がもらえるはずの遺産を全て手にして、出ていく決心をしました。彼の父親は彼のことを尊敬し、寛大です。息子の自由を尊重します。父親は、息子が彼自身の人生設計をしてよいのだと思ったのです。
そして若者は、福音が言っているように、遠い国に行ってしまいました。多分、地理的な意味で遠いところです。それは変化を求めているから。しかし、同時に、内的な視点からも遠い場所と言えましょう。なぜなら、彼は、全く違う生活を求めているのですから。
 始めの数ヶ月間、全て順調に行ったことでしょう。最終的に自分の人生を見つけたと信じ、幸せを感じます。しかし、その後、徐々にそこにも退屈してきます。この場所もまた、同じであるということを感じるようになり、最終的には空しくなってしまいます。自分にとって邪魔になる虚無感、落ち着かせなくする空洞が現れました。この生き方も、本当の生き方ではない、この生き方が続けば、もっと本当の命から離れていくと強く感じるようになり、虚無感に支配されます。いつも同じことをやっている、再び、奴隷の状態になっています。そして最後には金もなくなり、若者は自分の人生は、豚より劣っていると感じました。

 このようにして、若い息子には内的な新しい道が見えてきました。外的な道を生きながら、人間形成の成熟が始まります。彼は新しい人生を始めるために、父のもとへ帰る決心をしました。なぜなら、間違った道を歩んでいることに気づいたからです。自分自身に言い聞かせて、父のもとへ戻って、もう一度、他の生き方を始めなければならないと考えました。
 父の家に着きました。自由を与えられ、家から出て、再び戻ったのです。父の家に帰り、内的に生きるとは、そして、生きないとは、どのようなことかを理解する可能性を、自由が与えてくれました。父は愛に溢れて彼を抱きしめ、祝いました。その祝いから、彼は新しく始めることができました。毎日の仕事、謙遜、規律が、本当の祝いと本当の自由を形成することに気づき、このように内的に成熟して、清められて家に戻り、生きるという意味を理解しました。
 確かに彼の将来の人生は、そんなに簡単ではない。誘惑は戻るでしょう。しかし彼は、神なしの人生は上手く行かないということ、すなわち、神なしでは、根本的なものが不足し、光が不足し、人生の大きな意味が不足することに気づいています。
 もう一人の、家に残った息子については話したくありませんが、しかし、彼の妬みの反応で、彼も内的には夢を見ていたことが分かります。全ての自由を味わう方が、もっと良いかも、という夢です。ですから、彼自身も内面において家に戻らなければならない、生きるとはどういうことかを理解するために、もうひと回りしなければならないのでしょう。神と生きること、家族と交わって日常生活を生きること。みなさんがそれぞれの状況に合わせて、それぞれの福音を実践してください。
私たちの状況はさまざまです。それぞれが自分の世界をもっています。みんな、この福音に問いかけられ、内的道を通して福音書の深いところに入ることができます。私たちの内面には二人の息子の姿勢の両方があるかもしれません。四旬節の日々、神や他の人の間違ったイメージから仮面を外すことができますように。再び主に回心の恵みを願いましょう。

終わりに
 教皇フランシスコに合わせ、世界の平和、特にウクライナが国の再構築を早く始めることができますよう、アヴェ、マリアの祈りをもってこのオミリアを終わりましょう。

  アヴェ、マリア、恵みみ満ちた方、
  主はあなたとともにおられます。
  あなたは女のうちで祝福され、
  ご胎内の御子イエスも祝福されています。
  神の母聖マリア、
  わたしたち罪びとのために、
  今も、死を迎える時も、お祈りください。
  アーメン。