カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第10回「弱さの中にいる神」  2018. 2.17 説教


第一朗読:Uコリント12.7b〜10
福音朗読:ヨハネ15.1〜8

福音
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

説教
 さいたま教区では、今日、2月17日に、「世界病者の日」のミサを献げることになりました。本来は2月11日のルルドの聖母の日が世界病者の日と定められましたので、2月11日に献げられるべきですが、ことしは11日が主日なので、12日にしようということになったのです。しかし、その12日が那覇教区の司教叙階式となったので、更に延ばされて今日という日になったという次第であります。
世界病者の日、病者、あるいは、障がい者のために祈るミサ、病者、心身の不自由な方のために働いておられる医療従事者を励まし、支える、そのためにお祈りする日でもあります。   
 わたしたち人間は誰しも、病気になったり、あるいは、身体が衰えていったりするわけであります。この病気というものはどうしてあるのだろうか、と考えさせられますが、考えても病気が治るわけではありませんので、この病気ということをどういうように受け取ったらよいのだろうかということを考えてみたいのです。
今日の第一朗読をお聞きになりましたが、パウロという人のことです。この人は非常に頑健な、丈夫な人だった思われます。あれだけのことをしたんですから、身体も精神も非常に健康で、そして元気であったに違いない。でも、意外にも、そのパウロがぽろりと漏らしていることの中に今日の箇所がある。とげというのがあったというのですね。このとげというのは何であるかわからないんですよね。いろいろ想像されているのですが、学者はいろんな説を唱えているようですが、わからない。いやなこと、困ったこと、何かそういうものであったに違いないわけでして、何だったんでしょうか。それで、三度も主にお願いした。どうかこれを取り去ってくださいと。サタンから送られたと書いてありますね。良くないことに決まっていますけれども、しかし、聞き入れてもらえなかったわけです。そして、主からの返事は何であったかといいますと、
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」
そう言われた。この言葉を、わたしたちはどういうように考えたらよいでしょうか。病気になったり、あるいはいろいろな障がいの状態になったりした時に、もしそうでなければ、こういうこともできるし、ああいうこともできるのに、どうか直してください、癒してくださいと願うわけですけれども、必ずしも神様はその願いを聞いてくださるわけではない。あなたは弱くとも、その弱いあなたを通して、わたしは力、神様の力が働くのですよ、そういうように言われたのだろうと思います。

 世界病者の日を制定された教皇様はヨハネ・パウロ2世。ご記憶にありますように、ヨハネ・パウロ2世も就任された時は物凄くお元気な方だったのですけれども、難しい病気(パーキンソン病)になられ、でも最後まで勤めを果たされて、現役のまま帰天されたわけですね。

 わたしたちは弱い者です。その弱さの中にイエス・キリストの力が働くという信仰をわたしたちは本当に自分のものとすることができるだろうか。
福音はヨハネの15章、ブドウの木のたとえですね。

「わたしにつながっていなさい。」
どうやってつながっていることができるんだろうか。このパウロの言葉と合わせて考えてみると、あなたはこういう問題を持っているが、でもわたしはそういうあなたといつも一緒にいるんだよ、あなたと一緒にわたしはいますよと。そして、あなたを通してわたしは神様の恵みをあらわし、伝えるものである、神の栄光を表す、人間の弱さを通して神の栄光があらわれるのですよ、と言ってくださっているのかもしれない。人間の弱さ、ひしひしと感じますね。自分自身について、それから他の人についても感じるわけです。しかし、そういう人間の中に神様の力が宿る。この教えを今日もっと深く味わうようにしたい。

 そうはいっても、今日はこうだから、こういう風に信じなさいというつもりはありません。わたくしの自問自答でありますが、非常に難しい病気というのがあります。あるいは障がいというものがあります。聖書に出てくる病気の中で、この前の日曜日の福音に出てきましたのが、「重い皮膚病」と訳されている病気ですね。昔は「らい」と訳されていた、あるいは「ハンセン病」と言われるようにもなった。しかし、「重い皮膚病」という訳語が適当であるかがどうかということを今も議論している。非常に忌み嫌われ、排斥され、そして排除された病気ですね。

 ちょっと昔のことですけれども、『砂の器』という小説と映画がありました。その主人公はらい患者の子どもだったんです。みんなからいじめられ、隔離されて、全国を放浪したんですが、そういう境遇から抜け出して、名前をあげようとしていた時に、昔の自分を知っている、自分を助けてくれた人に出会ったという話で、都合が悪いから、自分の前身を知られたくないからその人を殺してしまうという悲劇なんですが、どんなに嫌悪された病気であるかということを表している。イエスが何人もの病人を癒したという話がありますが、特に目立つのは、いわゆる「重い皮膚病」の人。この人たちの苦しみは、身体的な苦しみだけでなくて、人々から排除される、隔離される、人々が近づかないんですね。でも近くに人がいる時には、「わたしは汚れたものです。汚れたものです」と叫んで、そして、それとわかるような服装を普段からさせられるということが旧約聖書のレビ記に出てくる。何というひどいことでありましょうか。今日世界中で、この問題は徐々に解決に向かい、日本でも「らい予防法」という法律が廃止されたわけでありますが、しかし、人々から忌み嫌われる病気とか障がいということが存在したし、今もある。そういう人々の苦しみに対し、イエスは深く同情し、そしてご自身もそのような苦しみ、悲しみを共にしてくださったのであります。もちろん、病気というものが癒されることが何よりも大切でありますが、必ずしもすべての人の病気、障がいがなくなるわけでも無い。

 イエスの生涯、人々の病をご自分の身に負ってくださった主の僕であるイエス・キリストの生涯を思います。明日が四旬節第一主日、それで一ヶ月半後ぐらいに復活祭になります。聖週間の一週間を過ごす、本当に過ぎ越しの神秘を深く味わうことができますように、今年は特に良い四旬節、聖週間を過ごし、復活の喜びを深く味わうことができますよう、ご一緒に祈り、支え合うようにしたいと思います。


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