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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第68回「キリストの体を食べその血を飲む、とはどういうことか?」  2018. 8.18説教


年間第20主日説教
2018年8月18日(土)浦和教会18:30

第一朗読:箴言9.1-6
第二朗読:エフェソ5.15-20
福音朗読:ヨハネ6.51-58福音朗読

福音
(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

説教
ヨハネ福音書の6章を、わたしたちは毎週日曜日連続して読んできました。今日、年間第20主日はその4回目、来週の21主日まで数えると、5回続けてわたしたちはヨハネの福音から学ぶことになっています。このヨハネの福音の6章というのは何をわたしたちに告げているのでしょうか。今日のイエスの言葉は、いわばそのクライマックスに当たる部分かもしれないと思います。イエスは言われた。
「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
これを聞いたユダヤ人は大変驚いた、つまずいたのであります。イエスはそれに委細かまわず、更に追い打ちをかけるかのごとく、もっとはっきりと言われました。
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」
この言葉をユダヤ人たちは理解できなかったのであります。それでは、イエスの弟子たちにはよくわかったのかというと必ずしもそうではない。福音書というのは、後で、つまり、イエスが復活したという体験に基づいて、まあ、イエスの生涯を振り返って述べているものであります。ヨハネの6章は、もちろん、イエスが十字架に赴き、そして殺され、そして3日目に復活するという、イエスの生涯の最後の部分にはまだ届いてはいない。しかし、その最後のところをあらかじめ指し示している内容ではないかとも思われるのであります。このイエスの言葉は、いったい何を言っているのでしょうか。わたしたちは、すでに、復活したイエスがつくった教会に属しておりますので、復活の光のもとにこの言葉をみますと、イエスの死と復活という出来事がこの言葉の中に込められているというように受け取ることができます。そして、それは、わたしたちが献げるミサの中で、司祭がパンとぶどう酒を天の御父にお献げしますけれども、そのパンとぶどう酒の奉献の意味がイエスの生涯の意味を、端的にというか、簡潔に述べているのであります。今日もこれから奉献文でイエスの言葉を唱えるわけであります。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの体である。」
また、次のようにも唱えます。
「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい」
わたしの記念、イエス・キリストの記念を、わたしたちはミサ聖祭で行っております。
「主の死を思い復活をたたえよう。主が来られるまで」
と会衆がその後応答をすることになっています。この会衆の応答はパウロの言葉を連想させます。
「だからあなたがたはこのパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
主の体をいただき、主の御血をいただくということは、主の死と復活を記念することであり、主イエスの生き方を自分の生き方として受け止めます、という決意と信仰を表明することに他ならない。本当はそういう意味なのですけれども、毎回同じことをしていると、だんだん本来の意味をあまり思わなくなってしまうという問題があり、司祭の方はもっとそうかもしれないですね。毎日あげるわけですから、そこにある驚きというか神秘をあまり認識しないで、いわば言葉が悪いですけれども、機械的に唱えてしまう。しかし、自分の言っている言葉がどんなにすごいことであるかということを思うならば、本当は震えおののいて唇にその言葉をのぼらせなければならないことでありましょう。

更に、使徒パウロは言っていますが、主の体を受けるその杯から飲むものはふさわしい準備をしていなければならない。ふさわしい準備をしなければ、主の体、主の御血をいただくことは冒涜の罪になりますから気をつけなさいと言っているのであります。今日も感謝の祭儀、ミサ聖祭において、わたしたちは主の体を受けるのでありますが、主の体を受けるということは、イエス・キリストの死と復活の神秘を自分も深く信じ、そして、その信仰の神秘をわたしたち自身が毎日生きます、実行します、という決意を表しております。それは考えてみれば実に大変なことであります。

ヨハネの福音の6章、最初は5つのパンと2匹の魚の奇跡の話から始まりましたが、どんどん話が集約していって、イエス・キリストご自身の生き方そのものにわたしたちは導かれているのであります。次の日曜日は、その展開、そしてわたしたちの信仰を問う場面が出てきます。今一度、わたしたちは、イエス・キリストを信じるということは何を意味しているのか、ということを深く思うようにいたしましょう。




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