カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第67回「復活の体に変えられるという希望のもとに」  2018. 8.15説教


2018年8月15日、草加教会

第一朗読:黙示録11.19a,12.1-6,10ab
第二朗読:1コリント15.20-27a
福音朗読:ルカ1.39-56

福音
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

説教
皆さん今日は8月15日。わたしたちカトリック信者にとっては聖母マリアの被昇天を祝う日であり、また、第二次世界大戦、あるいはアジア太平洋戦争が終わった日とされており、特に平和という課題を考え、そのために祈る日でもございます。そして、草加教会では、平和の元后とも呼ばれる聖母マリアのご像の祝福式を行うことができました。大変、記念すべき喜ばしい日でございます。

さて、聖母の被昇天という教えは、人々の間で、長い年月かけて、2千年にわたって人々が語り継いできた信仰告白であり、1950年に、時の教皇ピオ12世が、正式にカトリック教会の教えとして、すべての人に向かって宣言して教義として定めた教えでございます。
すべての人は死ななければなりません。何人もの人の死にわたしたちは誰でも出会っている。ご家族とか、教会でも、神父様もいつか亡くなるということで、そして葬儀をいたしますが、その時に思いますことは、この亡くなった方の体、遺体は今、日本ではだいたい火葬にしますが、そのままにしておけば腐ってしまうわけなす。でも時にはまさに奇跡として腐敗をまぬかれる遺体というものもあったようであります。マリア様の場合、どこで亡くなられたのかはっきりわかりませんが、マリア様も地上の生涯を終わりました。その時のそのお体は腐敗、腐ることをまぬかれて、天にあげられましたという人々の記憶とその伝承がずっと伝えられてきたのでございます。そして、わたしたちは、死を迎えると、その体は土に戻るのでありますけれども、他方、主イエス・キリストのご復活に与るという希望を持っています。
この体にはいつか終わりが来ます。もう、この体はもういいよと私個人はそう思います。長く働いてくれてご苦労さんと思いますが、それに代わる体、パウロの言葉によれば主の復活の体というか、同じような復活の体、朽ちることのない永遠の命を表し伝える体にしていただけます、という信仰をわたしたちは与えられております。
だいたい、どんなに健康な人でも、どこか問題があるでしょうね。年をとるともっとそれが増えていくと、でもマリア様のように地上を去る時すぐに実現しませんけれども、主の再臨の時に、あるいはわたしたちが地上を去る時、自分の体は置いていくんですけれども、別の世界にあげていただきますので、そこでは新しい別な体をいただけるのかもしれない。神学者はいろいろな可能性をわたしたちに教えてくれています。ともかく、死を超えてわたしたちが神様のもとで生きる、そして神様のもとにある喜びを味わうことができるという信仰を新たにいたしましょう。

今日はもう一つのことをご一緒に味わいたい。今日の福音であります。この中で、マリアの賛歌というマリア様が神様に向かってささげたマリアの賛歌というお祈り賛歌が出ております。わたしたちの教会はラテン語の最初の言葉をとってマニフィカートと言いますが、この賛歌を、晩の祈りとして、毎日唱えることになっています。このマグニフィカートを改めて味わってみると、少し驚くような、かなりびっくりする内容が告げられています。一言でいうと、神様は身分の低い一人の貧しい少女をお選びになって、そして、神の子主イエスの母とされた。その神様の選びに感謝し、神様のみ業を賛美する祈りでありますが、神様のみ心というのは、この世界の在り方をすっかり変えてしまう、ひっくり返すというお考えであると表明していると思います。そのことは次の言葉で表されている。
「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち砕き、権力ある者をその座からおろし、見捨てられた人を高く上げ、飢えに苦しむ人はよいもので満たされ、おごり暮らす人はむなしくなって帰る」
基本的には、このマリアの賛歌がささげられた時の社会と今の社会とは、基本的には同じ状態であるように思います。このマリアを通して言われた神様のみ言葉はまだまだ実現からは遠いような状態ですね。権力のある人が支配している社会ですね。権力、お金のある人が思い通りに社会を動かしている、そういう部分がある社会であります。そのような状態は神様のお望みではないよと言っている。何か革命的というお考えを表している。あまり深く考えないで、毎日習慣的に唱えていますけれども、神様のお考えは今の状態ではよくないんだと、わたしの考えはそうではないんだと言っているように思う。富める人は引き下げられて、貧しい人が大切にされる。権力をふるっている人はもう力を失って、そして、いつもひどい目にあっている、いやな思いをさせられている人がもっとこう喜んでいる、輝くようになる、そういう社会を神様はお望みであるということが伝わってくるように思うのであります。

今日、終戦というか、戦争が終結した日でありますが、地上から戦争が無くなったわけではない。日本という国は、しかし、それ以来、戦争に巻き込まれず、戦争を行わずに過ごしてきた、過ごすことができた。大変な恵みであります。これからもずっとそうでなければならない。わたしたちは、微力でありますが、この地上の平和のためにも、心の平和だけでなく、地上の平和のためにも、わたしたちの力を合わせ、そして、神様に日々、ささやかな努力をおささげするようにしたいと思います。




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