カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第65回「主イエスの与える平和」  2018. 8. 5説教


広島教区平和祈願ミサ説教
2018年8月5日19時
エリザベト音楽大学セシリアホール

第一朗読: イザヤ57・15-19
福音朗読: ヨハネ 8・14-29

第一朗読
57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
57:16 わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。
57:17 貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。
57:18 わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために
57:19 わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。

福音朗読
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。


説教
主イエスはこの世から父のもとへ昇られるに際し、弟子たちに言われました。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ14・27)

司祭は、ミサの交わりの儀の中で、このイエスの言葉を必ず唱えます。
「主イエス・キリスト、あなたは弟子に仰せになりました。
〈わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。〉
わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばの通り教会に平和と一致をお与えください。」
キリストの言われた平和とは、復活されたキリストが教会にお与えになった聖霊の賜物に他なりません。平和は聖霊の賜物です。聖霊を受けなければわたしたちは平和の使徒として働くことができないのです。

平和の使徒として働くということは、聖霊の恵みを受けて、平和を脅かし平和を破壊する悪の力と戦い、悪と罪に打ち勝つということです。それゆえ主イエスは主の祈りをわたしたちに与え、主の祈りの結びで
「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお守りください」
と祈るようにお命じになりました。主の祈りの直後の副文で司祭はさらに祈ります。
「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。

  あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。
  わたしたちの希望、救い主イエス・キリストがこられるのを待ち望んでいます。」
平和は聖霊の賜物でありますが、わたしたち人間の側の協力、働きの成果でもあります。 平和は、わたしたちの罪と悪との戦いの実りです。
教会はもちろん平和の建設のために努力してきました。しかし、歴史を振り返れば、現在では理解しがたく、受け入れがたい歴史上の事実、――過ちや暴行、侵害行為にキリスト信者が加担し、あるいは実行していた事実が明らかにされています。
教皇ヨハネ・パウロ二世は広島訪問の際に
「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。」
と宣言されました。その聖ヨハネ・パウロ二世教皇は紀元2000年の大聖年を迎えるにあたり、使徒的書簡『紀元2000年の到来』(1994年)の中で、過去のキリスト者の侵した過ちを指摘し、強い反省を呼びかけています。教皇は言っています。
「教会の息子や娘たちが悔い改めの精神によって振り返らなければならない、もう一つの痛ましい歴史の一章は、何世紀にもわたって、真理への奉仕に際しての不寛容、さらに暴力の行使を黙認してきたことです。」(35項)
教皇がこのような告白で具体的に何を示しているのか、この文書自体は述べていませんが、「暴力の行使の黙認」の内容は、おそらく、十字軍、異端審問、ユダヤ人迫害、宗教戦争などを示唆していたと思われます。
また、他にも、問題として、
「キリスト者の間の分裂と対立」
「体主義政権による基本的人権の侵害を見過ごし、あるいは黙認したたこと」
「教会の社会教説の理解と実行を怠ったこと」
などを挙げています。

日本の司教団も聖ヨハネ・パウロ二世のこの呼びかけに励まされて、『平和への決意―戦後50周年にあたって』を発表し(1、次のように述べました。
「今の私たちは、当時の民族主義の流れのなかで、日本が国をあげてアジア・太平洋地域に兵を進めていこうとするとき、日本のカトリック教会が、そこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気がつかず、尊いいのちを守るために神のみ心にそって果たさなければならない預言者的な役割についての適切な認識に欠けていたことも認めなければなりません。」

20世紀は二度にわたる世界大戦の行われた世紀となりました。核兵器などの大量破壊兵器が登場し、数知れない非戦闘員である一般市民も命を奪われる、悲惨で不条理な現実が繰り返されてきました。
21世紀こそ、戦争のない世紀、大量破壊兵器の使用されない世紀、そしてすべての核兵器が廃棄される世紀にならなければなりません。
朝鮮半島を非核化するとの合意がアメリカ合衆国、韓国、北朝鮮の三国間で実現したと報道されていますが、これについては、納得しがたい、腑に落ちない思いをわたしは持っています。世界一、多量で強大な核兵器を所有しているアメリカ合衆国が、自国の核兵器縮小と廃棄には言及しないまま、東アジアの朝鮮半島を分割している二国における核兵器廃絶を強く求めているのは、全く一方的な身勝手な主張ではないでしょうか。他国に非核化を求めるなら、まず、同時にアメリカ合衆国自身が身をもって核の廃絶を実行すべきです。

さて、今年の広島平和祈願ミサの説教の結びにあたり、わたしはどうしても、有名なユネスコ憲章の前文を想起しないわけには行きません。
〈戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。〉
かつて、日本カトリック司教協議会諸宗教部門の主催で「平和のための宗教者の使命」というシンポジュームを開催しました時(2015年4月26日、大宮教会)にお聞きした仏教の教えが強く心に響きました。
「平和を脅かす原因は人間の心の中に在る煩悩である。特に貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)という三つの毒が人間の心を狂わせる。貪とはむさぼりのこと、瞋(人)とは嫉み、恨み、怒りのこと。癡とは自分のことにしか関心が持てず、他者のことには無知であることである。」(天台宗の杉谷義純師の発言)
これはまさに使徒パウロの言う「肉の業」(ガラテヤ5・19-20)に該当するかと思います。聖霊の助けを受けて肉の業と戦いながら、聖霊の実り〈愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制〉が豊かに与えられますよう祈りましょう。



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