信仰講座 ARCHBISHOP COUSE
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■ 第63回「弟子たちはイエスを誤解していた」 2018. 7.25説教
聖ヤコブ使徒の祝日の説教 東京教区・本郷教会 第一朗読: 二コリントの信徒への手紙 4:7-15 (皆さん、)わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 福音朗読: マタイによる福音書 20:20-28 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 説教 今日の福音朗読はイエスがエルサレムに向かう途中の出来事を述べています。イエスは三度目の受難の予告をしました。弟子たちにはイエスの言葉の意味が分からなかったのです。それどころか、大きな誤解をしていたようです。弟子たちは、イエスはエルサレムでローマ帝国の支配を転覆させ、自ら弟子たちと一緒に新政権を樹立する計画をしていると勘違いしたのかもしれません。それは、今日の、ゼベダイの子ヨハネとヤコブ、その母の言葉から伺うことができます。 「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 彼らは、イエスの心を全く理解していませんでした。イエスは言われました。 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 この個所は、叙階式の時の福音朗読の箇所に度々選ばれます。司祭、司教は「偉い人」になるために叙階されるのではありません。むしろ、苦しみを受け、蔑まれ、見下げられ、無視され、辱められるために司祭になり、司教になります。いや、キリスト者は皆、イエスの受難に加わるために洗礼を受けたのです。 現在の私たちの教会の状態はどうでしょうか。権力、名誉、快適な生活、自己満足、地上の富の追求と蓄積に憂き身を費やしている部分はないだろうか。真摯に反省する時です。因みに、今日祝うヤコブは12使徒の中での最初の殉教者となりました。聖ヤコブに献げられたコンポステラの教会は有名な巡礼地となっています。 |
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